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19 誘惑の言葉
まさに、下心のある男のセリフ。
ヘレナは内心苦笑しながらも、妙に心がなぐさめられた。 サイラスに冷たく突き放されて傷ついた自尊心が、お世辞を求めていたのかもしれない。
「いいえ、世界を征服なさるのは殿方の野望でしょう? 私は観客の皆様に認められて、いい役がついて、給料が上がるのが夢ですから」
パトロンは要らないというほのめかしに、子爵はあからさまに残念そうな表情になって、すっきりした足取りで歩く娘を覗きこんだ。
「そうかな。 舞台でライトを浴びるのもいいけれど、ときには着飾って観客席にゆったりと座って、周りの注目を集めるのも楽しいですよ。
初々しく美しいヘレナさん、もしそんな夢が見たくなったら、真っ先に僕を思い出してください。 うちはトマスほどの大富豪じゃないが、好きな人に楽しい思いをさせるぐらいのことはできます。
まず手始めに、花とボンボンを贈らせてくださいね。 月並みだけど、気持ちとして」
ヘレナはできるだけ優しい微笑みを返した。 確かに楽屋へ花が届くと、他の女優たちに注目される。 焼餅を焼かれるかもしれないが、一目置かれるのは確かだ。
「まあ、ありがとうございます。 大事に飾らせていただきますわ」
気がつくと、もう下宿屋の前だった。 ハリーはトマスと一緒に、ここへヴァレリーとヘレナを送ってきたことがあるので、道をちゃんと覚えていたらしい。
古びた立派な建物を見上げて、ハリーは呟いた。
「ここも昔は、広げたスカートを着たレディたちや、派手な上着と半ズボン姿の紳士たちが、どちらも厚化粧して踊りまわっていたんでしょうね」
十八世紀、男も女と同じように白粉を塗り、粉を振ったかつらを被って嬌声〔きょうせい〕を上げていた頃を思って、ヘレナは笑い顔になった。
「舞台でときどき、そういう役をやります。 あばた隠しの黒パッチを張ったこともありました」
「天然痘は、今でも怖いですからね」
「ええ」
戸口で立ち止まると、ハリーはヘレナの手を取り、持ち上げて指の関節に温かい唇をそっと置いた。 それはあたかも、恭〔うやうや〕しいといえるほどの仕草だった。
不意に現われた子爵のおかげで、ヘレナはだいぶ気分がよくなり、その晩は酒の世話にならずにすんだ。
翌日の昼過ぎ、劇場に行くと、本当に花が届いていた。 秋咲きの白とピンクの薔薇が、籠に山盛りになって、カードが挟んであった。
「花束じゃなく、籠? そういうの高いのよ」
「ケチじゃないって証拠ね。 狙い目よ、ネリー」
ネリーはヘレナの愛称だ。 ヘレナはそう呼ばれるのが嫌いだが、文句を言ったことはなかった。
横にいたマグダという赤毛の子が、さっさとカードに手を伸ばして、目を細めながらゆっくりと読んだ。
「ア・ラ・ベル・エレーヌ? きざね、これフランス語だよね?」
カードを取り返したヘレナは、下に書かれた子爵の名前を確認した。 君の忠実なる僕〔しもべ〕ハリー・ハモンド、とだけサインしてあった。 彼は爵位をひけらかすタイプではないようだった。
そこで、彼の呼びかけが心によみがえった。
初々しく美しいヘレナさん── 実は初々しくなんかないことを、子爵が知ったらどう思うだろう。
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