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表紙

アンコール!  18 男いろいろ




 ヘレナには舞台で鍛えた筋力があった。 だから、信じられない驚きを一瞬で振り払って、軽々と立ち上がった。
 サイラスはじっとしたままだった。 ただ、脇に垂らした手をせわしなく握ったり開いたりしている動作だけが、内心の動揺を表わしていた。
 ヘレナは紅潮した顔を彼に向け、短く言い捨てて歩き出した。
「じゃ、お休み、ダーモットさん」
 出入り口のドアに達して、ノブをねじったとき、背後から声だけが追ってきた。
「サイラスだ。 痛くさせる気はなかった。 ただ、触られるのが苦手なんじゃ」
 少しためらった後、ヘレナはしぶしぶ振り返った。 雇い主に手を出されたわけじゃない。 逆に振り払われたのだから、ここは身の安全を祝うべきところなのだ。
「わかったわ。 今後気をつけます」
 部屋の奥に立つサイラスは、かすかに首を倒してうなずいた。 光の届かない空間に薄い影を伸ばしたその痩せた姿は、なんだか疲れて寂しげに見えた。


 いつも以上に早足でたどる帰り道で、まだショックは尾を引いていた。
 自分がしくじった、とヘレナにはわかっていた。 うまく距離感を取ることで上手に生きてきたのに、サイラスには親しみを持ちすぎた。
 どうしてなんだろう。 そこが一番ふしぎなところだった。 近所でもっとも怖がられ、謎の大立者、誰よりも偏屈〔へんくつ〕な老人として敬遠されている男に、ヘレナは最初から好意を感じていた。
 たぶん、相性がいいのだろう。 それにサイラスは、確かに厳しい性格かもしれないが、世間で言われているようなごうつくばりとは違った。 彼には一本、きちんとした筋が通っており、情もあった。 固くなった心の奥底に、鍵を掛けて閉じ込められてはいたが。
 それにしても、突き飛ばすなんて!
 ヘレナは怒りをこめて、床でついた服の埃をパッパッと手で払った。 下宿に戻ったら、久しぶりにワインを一杯やって、うさ晴らししなくちゃ。
 鼻息荒く小走りになったとき、近くを通る馬車が速度をゆるめ、中から髪がくしゃくしゃになった頭が覗いた。
「おや? コール嬢? そうだ、ヘレナ・コールさんでしょう?」
 近くにある街灯の光で、巻き毛が金色に輝いた。 その下に白く見える優しい顔立ちに見覚えがある。 ヘレナは速度を落として、青年に微笑みかけた。
「こんばんは、子爵様」
「ハムかハリーと呼んでくださいよ」
 そう言いながら、ハムデン子爵ハリー・ハモンドは馬車を止めさせ、ステッキとトップハットを手に、すべるように降りてきた。
「お宅まで送りましょう。 もう真夜中だ。 女性の一人歩きは危ない」
 馬車が静かに去っていくのを、ヘレナは驚いて見送った。
「あの、行かせちゃっていいんですか?」
 ハリーは白い歯を見せて笑った。
「いいんです。 疲れたでしょう。 腕をお貸ししますよ」
 さりげなく肘を出された。 わびしい気分だったので、ヘレナは彼の親切がうれしかった。 たとえ下心があるにしても。
 それで、遠慮なく腕に掴まり、しっかりした筋肉と温かさに頼った。
 ヘレナに合わせてゆったりした歩調で進みながら、ハリーは呑気に話しかけた。
「芝居が当たって、よかったですね」
「ええ、私たちにも祝儀袋が出たんですよ。 中身は少しだけど」
「で、花やボンボンを贈るファンも増えたと」
「いいえ、私には全然」
「え? じゃ、僕が贈ります。 楽屋に並べてください。 あなたが征服したとりこの証しとして」









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