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17 意外な態度
ものに動じないサイラスでも、このヘレナの提案にはびっくりした。
「複式簿記だと?」
「ええ」
ヘレナは考え込みながらうなずいた。
「必要なのよ、将来のために。 店を持ちたいの」
「高望みじゃな」
サイラスは一言で切り捨てた。 それでもヘレナはめげなかった。
「すぐにはね。 まず他人の店で見習いすることになると思うの。 でも、いつかは」
「やれやれ」
皺の出た額をごしごしとこすると、サイラスは折れた。
「よかろう。 ただし、容赦はしないぞ。 お前さんは、わしの毒舌に我慢できるんだからな」
「大丈夫。 しっかり教えてね」
「ふん。 しっかり覚えるのはそっちだろうが」
結局、劇場が休みの月曜日を除いて、火、木、土と質屋に通うことになった。
ヘレナには負担が増えるが、こなせるぐらいの体力はあった。 ちゃんと通えれば一ヶ月に一ポンド四シリング、一年で十四ポンドと四シリングになる。 男性労働者の年収が二○ポンドから四○ポンドほどだから、副収入としては、それほど悪くなかった。
「その分、月曜日に楽しまなくちゃね」
いそいそと下宿に帰り、階段を上りきると、足音を聞いたのだろう、ヴァレリーがすぐドアを開けて、笑顔で迎えた。
一人で部屋にいた時間を、ヴァレリーは無駄にしていなかった。 もともと綺麗に使っていた部屋だが、床はピカピカになり、窓枠も拭き清められて、ガラスのかすかな曇りさえ消えていた。
そして、テーブルの上にはハムときゅうりのサンドイッチが皿に盛られていた。
「下宿のおかみさんがハムをくれたの。 それで、パンの残りを使って作ったんだけど」
遠慮がちに言うヴァレリーを抱きしめんばかりに、ヘレナは喜んだ。 疲れて帰ってきた身に、食事の支度は面倒なものだ。
それに、ヴァレリーが思った通り、気を遣う優しい性格だとわかったのも嬉しかった。 こういう人なら、本屋の店員もうまくこなすにちがいない。
翌日の木曜日、ヘレナは芝居がはねると早速、サイラスの質屋に寄った。
読まされたのは、雑多な字で書かれた多くの手紙だった。 中には、メモとしかいえないただの紙切れも混じっていた。
汚い字の文面を苦労しながらヘレナが読むのを、サイラスがじっくり聞きながら要所を書き取る。 その作業が四十分ほど続いた後、サイラスが不意に顔を上げて、ヘレナに訊いた。
「そろそろ夜が冷えてきたな」
珍しい。 社交的会話だ。 ヘレナはにこっと笑って、愛想よく返事した。
「ほんとね。 そろそろマントを出さなくちゃ」
「冷えると、温かい飲み物がほしくなるな。 お前さんトディを作れるか?」
ああ、そういうことか。
これは仕事の範囲外だが、自分も飲めるなら文句はなかった。 ヘレナは身軽に立ち上がり、サイラスの指示に従って、奥の台所に足を運んだ。
ブランデーを使ったトディは、おいしくできた。 温かい飲み物で気分がよくなったサイラスは、簿記の初歩をすらすらと教えてくれた。 早口でぶっきらぼうでも、教わる気まんまんのヘレナは注意深く聞き取って、さくさくと覚えた。
そして帰り際、サイラスは約束を忘れずに、ヴァレリーの推薦状を渡してくれた。
「店主に話を通してある。 これを本人が持っていけば、すぐ雇ってくれるはずだ」
「ありがとう!」
なんて頼りになる人だろう。 ヘレナは思わずサイラスに飛びついて、頬にキスした。
その瞬間、思い切り突き飛ばされ、床に尻餅をついてしまった。
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