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アンコール!  12 屋根裏の夢




 火傷した手の甲はまだ赤くなっていたが、医師の見立てで安心したヘレナは、そろそろ帰ることにした。
「一緒に行きましょうよ。 ね?」
 そうヴァレリーを誘うと、彼女はそっとうなずき、遠慮がちに目を伏せて立ち上がった。
 すぐトマスも立ち、従僕を呼んで馬車の支度をさせた。
「約束した通り、送らせてもらいます」
「僕も行くからね」
 ハリーが楽しそうに、野次馬然と口を挟んだ。


 ヘレナの住んでいる下宿屋は、若者二人の想像とは違ったようだった。 古いが堂々としたたたずまいを、ハリーはシルクハットの縁を持ち上げてじっくり観察した。
「ここはもしかして、以前はラルスベリー邸だった家じゃないか?」
 トマスも玄関の上の浮き彫りのついた三角飾りを、感心して眺めた。
「上等なギリシャ風だ。 ここなら部屋のつくりもしっかりしているだろうな」
「ええ、とても」
 ヘレナはすまして言った。 借りているのが四階の使用人部屋で、窓際に行くと天井に頭がつくのは黙っていた。
「いろいろありがとうございました」
 ヴァレリーが細い声で礼を言うと、トマスは気づかわしそうに顔を向け、手を取って別れの挨拶をした。
「大した怪我でなくて、よかったです。 どうかお大事に」
 その横で、ハリーがにこやかにヘレナと視線を合わせた。
「また芝居を見に行きますよ。 僕を忘れないでね」
「忘れるものですか。 どうぞうちの劇団をごひいきに」
 ヘレナも飛び切りの笑顔を返した。 若い貴族で、友達の多そうな男性は、一番の上客だ。 知り合えたのは幸運だった。


 二人の若者が、なんとなく名残惜しそうに帰っていった後、ヴァレリーは少し明るくなって、ヘレナの後に続いて三つの長い階段を軽々と上がった。
 殺風景な木のドアにたどり着くと、ヘレナは冗談混じりに説明した。
「立派なお屋敷の粗末な使用人部屋よ。 でも、ここらへんにしちゃ家賃がお得なの」
 ヴァレリーはちっとも驚かず、嬉しげに部屋の中に入って、くの字型に二つ並んだベッドを見た。
「私が住んでいた屋根裏部屋より、ずっと立派」
「あまり楽しくなかったのね」
「楽しいことなんか、なにも」
 ぽつんと言ってから、ヴァレリーは疲れた様子で、使っている形跡のない手前のベッドに腰を降ろした。
「父が生きているうちはよかったの。 貧しかったけれど、両親は仲良しで、親子そろってあちこち散歩したわ。 それが一番安上がりだから」
「お金をかけなくても、楽しいことってできるわよね」
 ヘレナもヴァレリーの横に腰掛け、遠くを眺める目になった。 まだ母が生きていたころ、ヘレナにもわずかだが、一家団欒の幸せな思い出があった。










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