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9 親切な誘い
そのとき、不意に後ろから声がかかった。
「君たち、何が起きたんです?」
娘二人は、ぎょっとして振り返った。
酸をかけられた子は、とっさにヘレナの背中に身を寄せて、顔を隠そうとした。
二人の背後にいたのは、若い紳士だった。 見るからに上等なコートに身を包み、頭には粋な角度に傾けたシルクハットを載せている。 その角度が深いので、顔立ちはよくわからなかった。
話しかけてきた相手が育ちのよさそうな青年とわかって、ヘレナは少し肩の力を抜いた。
「悪い人間がいて、この人に酸のようなものをかけたんです」
そう言って振り返ると、娘はますます体を小さくして、ヘレナの背中にしがみついた。
上半身がブラウスだけになっているので、恥ずかしいのだろうと気づき、ヘレナは素早くケープを脱いで渡そうとしたが、男が一歩先んじた。 彼はコートをさっと取ると、惜しげもなく娘の肩を包んだ。
娘はハッとして、男を見上げた。 すると夜会服姿になった男は、帽子の縁を持って軽く上げ、挨拶した。
「怪しい者じゃない。 わたしはトマス・ウェイクフィールド。 一応ラルストン伯爵です」
貴族なの?
ヘレナは好奇心を沸かせて、ラルストン伯爵と名乗った男を眺めた。 そして、これが上流紳士なんてウソでしょう? と突っ込みを入れたくなった。
なぜかというと、美しかったからだ。 そこそこハンサムな紳士は上流社会にもいるが、混じりっけなしに美形といえるほどの貴族なんて、これまで見たこともなかった。
上品な俳優みたいな美貌を持った自称ラルストン伯爵は、前にいる若い娘二人を等分に見ながら、低い声で話しかけた。
「暴漢に酸をかけられたのなら、手当しなければ。 知り合いにいい医者がいるから、うちへ呼びましょう」
「え?」
娘が不意に、悲鳴に近い声をあげた。
「お宅へ、ですか?」
「そうです」
伯爵は丁重に答えた。
「ここで逢ったのも何かの縁だ。 馬車があちらに停めてあります。 家はそう遠くないから、乗ってください」
「そんなご迷惑はかけられません」
困った様子で、娘は後ずさりを始めた。 伯爵は苦笑して、ヘレナに視線を向けた。
「誘拐するつもりじゃありませんよ。 確かにお二人とも綺麗な方で、目の保養になりますが、襲う気はまったく……」
「それは僕も保証します」
ぶらぶらと近づいてきたマントの男が、深夜なのに明るい笑顔で、口を挟んだ。
「トマス、おまえ相変わらずぶっきらぼうだな。 手順というものを忘れてるぞ」
そう言って内懐から手品のように白いカードを取り出し、女性二人にそれぞれ配った。
「僕はこういう者です。 ハロルド・ハモンド。 普段はただのハリーですが、正式にはハムデン子爵。 頭文字が全部Hなんですよ、覚えやすいかな?」
ヘレナは、突然闇の妖精のように現われた二人の青年貴族を、興味津々で眺めていた。 この劇場に勤め出してから、声をかけてきた男性は数人いる。 食事に呼ばれて付き合ったことも二度ほどあったが、うまく煙に巻いて無事帰ってきた。
この美男子さんたちも、内心は遊び相手を探しているのだろう。 でも私は逃げられる。 そう自信があった。
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