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8 世間知らず
どうして特別扱いしてくれるんだろう。
首をかしげながら、ヘレナは時折強い風が吹き抜ける戸外へ足を踏み出した。
少し離れた劇場の表玄関には、次々と馬車が呼び出されて、家路につく観客が乗り込んでいた。 楽しそうに去っていく彼らの姿を見ると、ほんの脇役のヘレナにも喜びが湧き上がってくる。 今日の客と批評家が、きっと良い評判を広げてくれるだろう。 明日からも満員が続くはずだ。
そう考えると、疲れを忘れた。 明るい気分で下宿めざして歩き出したヘレナの耳に、突然たまぎるような女の悲鳴が飛び込んできた。
人でたてこんでいる劇場前にも、悲鳴は響き渡った。 客たちはいっせいに口をつぐみ、何事が起きたのかと首をめぐらせた。
ヘレナも、悲鳴が聞こえた背後を振り向いた。 すると、街灯から外れた暗がりから、一つの姿が走り出てきた。
それを追うように、角から黒い頭が一瞬突き出た。 だが、人がたくさんいることに気づいたらしく、すぐ引っ込んだ。
スカートをはいたきゃしゃな姿は、やみくもに走ってきて、立っていたヘレナにぶつかりかけた。 ヘレナが反射的に手を出して受け止めたとき、手の甲にぴりっとした刺激が走った。
「痛っ」
すると、抱き止めた相手ががたがた震えながら、肩からずり下がったショールの端でヘレナの手を拭きはじめた。
同時に、かすれた声がささやきかけた。
「かけられたの。 何か薬品を」
「硫酸?」
たまげて、ヘレナは叫び声をあげた。
「あなた大丈夫? すぐ水で洗わなきゃ。 行こう!」
知らない女を、ヘレナは強引に劇場の庭に引っ張っていった。 そこには花壇と池がある。 ビーナスの銅像の下で、ヘレナは酸が垂れた手の甲を水にひたし、女にもうながした。
「痛いところを全部洗って」
女はショールをすべり落とした。 淡い明かりに照らされた服の襟元が色変わりしている。 ヘレナは急いで身を起こした。
「上を脱いで」
女はたじろいだ。 改めて顔を見ると、まだごく若い。 顎の下が赤くなっているが、顔そのものには怪我は無いようだった。
「すぐ脱がなきゃ。 私のケープを貸してあげるから」
女は決心し、腕に下げていた布の大きなバッグを下に置くと、ぎこちなく前のボタンを外した。
白い胸のあちこちが、赤いまだらになっていた。 痛々しい。 ヘレナはハンカチを水にひたして、娘の胸をせっせと拭いてやった。
「少しは増しになるわ。 ひどい目に遭ったわね。 相手に心当たりある?」
「いいえ」
娘は口で答えただけでなく、大きく首を振った。
「私、ロンドンへ出てきたばかりなので」
あらー、かわいそうに。 純真な地方の子なんだ。
子供のころから純真には縁がなかった気がするヘレナは、同い年ぐらいなのに姉のような気分になって、娘に笑いかけた。
「やけどは思ったほどひどくないみたいね。 今夜泊まるところはどこ? 近くなら送ってってあげるわ」
とたんに娘は下を向いた。 ヘレナは驚いて、娘の顔を覗きこんだ。
「まさか、まだ決まってないの? ロンドンは危険なのよ。 特に夜は」
「知ってます」
上品な口調で呟くと、娘は頼りなげな溜息をついた。
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