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表紙

アンコール!  2 変わった男




「やだ、あんた、殺しちゃったの?」
 ヘレナはさすがに焦って、辺りを見回した。
 もう真夜中を過ぎている。 こんな時間にうろうろしているのは、酔っ払いと商売女、それに遊び人ぐらいのもので、そういう連中は馬車に乗って通り過ぎるだけか、もっと狭い小路で客あさりしていて、人通りはほとんどなかった。
「ただ、ギリシャ風の円柱が並んだ公会堂の階段に、黒い塊がうずくまっているのが見えた。 おそらくは泥酔者か浮浪者で、しかも輪郭しかわからないほど遠いから、事件を目撃したとは思えない。 それでもヘレナは用心して、よれよれと立ち上がろうとしている男をせきたてた。
「早く! 心配しないで。 殺人罪にはなんないわ。 私が証人になったげるから」
 男はようやく二本足で立ったものの、膝は曲がったままで、妙な風にふらついていた。 やがて出てきた声も奇妙で、木枯らしのようにしわがれ、さびついていた。
「何言っとるんだ。 わしは警察なんかに行かんぞ」
 ヘレナはあきれて、鼻を鳴らした。
「じゃ、このまま放っておいて逃げる気?」
「逃げたほうがいいのは、お前さんのほうだ。 この出しゃばり」
「へえ、そうですか。 私がいなかったら、あんたとっくにおだぶつだったんじゃないの、おじいちゃん?」
 ヘレナも負けずに言い返した。 そして、ガニ股で歩き出した男の手から、小さな拳銃を奪い返した。
「勝手に使ってんじゃないわよ。 あっ」
 思わず叫びが口をついて出たのは、握ったピストルにヌラッとした感触があったからだった。
「血がついてる。 おじいちゃん、あんた怪我してるよ」
「当たり前だ。 こいつがいきなり襲ってきたんだからな」
 男は傍を通るときに、射殺した相手の手を無情に踏みつけた。 ヘレナがぎょっとしていると、彼は初めて自分から説明した。
「本当に死んでるかどうか、確かめておかんと。 近所だからお礼参りされたら困る」
「あんたこの近くの人なの?」
 男は白いゲジゲジ眉毛の下から、流し目をくれた。
「わしゃサイラス・ダーモットだ。 知っとるか?」


 はあ〜。
 ヘレナは改めて、乱れた白髪に囲まれた鷲鼻の顔を見直した。
 サイラス・ダーモットは、一種の名物男だった。 これでも若い頃はけっこう二枚目で明るく、ダンスがうまかったという。 質屋の店員としては珍しい素質だが、二十代半ばの夏に何かが起きてからは、がらっと変わって典型的なごうつくばり、つまりケチで冷血で細かい男に変身した。
 その功あって、最初の店主ゴールドマン氏のお気に入りとなり、三十代で共同経営者に成り上がった。 そして、四十代にさしかかったときゴールドマン氏が病死して、店を受け継ぐことになったのだった。
 それからの活躍はめざましかった。 金を貯めこむだけだったゴールドマン氏とちがい、ダーモットは儲けを賢く投資した。 株や債権ではなく、土地にだ。
 まだ新興住宅地だったメイフェアに目をつけ、せっせと足を運んで見込みのある区画を買い占めた。 そして、うまく立ち回って高値で売りつけた。
 不動産業のマハラジャと話題になった後、彼は強盗に入られた。 あまりの成功ぶりに、同業者がねたんだのだろうと噂された。
 ダーモットは瀕死の重傷を負ったが、生き延びた。 だが脚に後遺症が残り、顔にも大きな傷ができた。
 その後、ダーモットの姿を見た者はほとんどいない。 質屋の店は相変わらず営業しているし、近くの大きな屋敷を自宅にして住んではいるが、ダーモットは幻のような存在になってしまった。


「大金を抱え込んで豪邸住まいをしてるんでしょ? なんでこんなぶっそうな時間に、一人で歩いてたの?」
 ダーモットはしかめっ面になって、ヘレナを睨んだ。
「わしはやりたいようにやる。 余計なお世話だ」
「そうやって突っぱってるから狙われたのよ」
 ヘレナは平気で言い返した。 相手が大富豪でも、お世辞を言って取り入ろうなんて思わないから、普段通りだった。
「夜に外へ出るときぐらい、用心棒雇いなさいよ」
「金がかかる」
 あらら。
 ロンドン有数の金持ちが、こういうこと言うんだ。
 ヘレナはあきれて、笑い出したくなった。
「じゃ、医者にも行かないつもりね」
 反射的に頭に手をやってから、ダーモットはうそぶいた。
「当然だ」







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