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表紙

アンコール!  1 危険な街角




 十九歳の女優ヘレナ・コールは、酔いつぶれた若い地主ヘンリー・ステートの手を優しく叩いてから、するっと小型の辻馬車を抜け出た。
 低い笑い声が聞こえたので顔を上げると、御者席の中年男が派手にウィンクを送ってきた。
「うまくやったねぇ、姐〔ねえ〕さん。 キスもさせずに、家まで送らせたじゃねーか」
 ヘレナはすかさず、肩にかけた粋なショールの端を振って応え、しなを作ってみせた。
「夕食もおごってもらったのよ。 いいでしょ」
「うらやましいよな。 オレもあんたみたいなかわい子ちゃんなら、毎晩ちがう男におごらせて、左うちわで暮らすぜ」
「じゃね、バイバイ」
「あばよ」
 陽気に挨拶しあった後、ヘレナは傾きかけた帽子をきちんと直し、夜用の分厚いヴェールを降ろしてから、早足で家を目指した。


 ヘレナが住んでいるのは、ロンドンのストランド大通りの外れにある下宿屋だった。
 この付近は、十七世紀まではお屋敷町で、豪邸が立ち並んでいた。 だが十八世紀の末頃から次第にさびれ、相続人を失った屋敷のいくつかに貧乏人が入り込んで、酒場や宿屋に変えた。
 そのせいで、まだ財産を保っている人々は嫌がって逃げ出し、新しい邸宅を別の場所に建てた。 今流行の先端を行っているのは、メイフェア辺りだ。
 少々街筋の品格が落ちても、ヘレナはまったく気にしなかった。 交通の便がよくて、部屋がそこそこ清潔で、家賃が安いなら、それで充分だ。 おまけに、通りが広々している分、追いはぎに襲われる危険が少なかった。


 しかし、その晩は少し様子がちがった。
 青白いガスの炎が揺れる街灯の傍を通り過ぎたとき、いきなり横の小路から男がよろめき出てきて、ヘレナの足元に倒れ伏したのだ。
 一瞬のことだった。 びっくりしたヘレナが棒立ちになっていると、ばたばたと足音が大きくなってきて、右手をふりかざしたもう一人の男が小路の奥から現われた。 手に握っているものがギラリと光り、短剣か包丁のような刃物だとすぐわかった。
 こいつが狙っているのが倒れた男か、それとも自分か、とっさに判断がつかない。 ヘレナの指は反射的に小さな手提げを探って、ピストルを引っ張り出した。 柄にエナメルの絵が嵌めこまれているきゃしゃな小型拳銃だが、威力は保証つきだ。
 それからヘレナは銃をたけだけしい大男に向け、舞台で鍛えた鋭い声で脅した。
「どきな! 腹を打ち抜かれたくなきゃ、さっさと」
 男は小さな銃口を一目見ると、大口を開けて笑った。
「ふざけんじゃねぇ。 そんなオモチャでオレを撃つって? やれるもんならやってみろってんだ」
 そこでヘレナは、ピストルを構え直して引き金を引いた。
 目標は腹ではなく、もう少し下だった。
 パン、というかすれた鈍い爆発音の後、大男の目が皿のように見開かれた。
「ち……畜生、本当に撃ちやがったな!」
「警察に行く? 言っとくけど、これは二連発よ。 あんたがガタガタ騒ぐなら、今度は心臓にお見舞いするよ」
 そうヘレナが啖呵〔たんか〕を切る間にも、男の太ももから血がしたたり落ちて、敷石をみるみる黒っぽく染めた。
 そのとき、予想外のことが起こった。
 下で伸びていた最初の男が、むっくり半身を起こして、いきなりヘレナの手からピストルをもぎ取ると、街灯の柱につかまって呻いている襲撃者めがけて一発撃ち込んだのだ。
 今度は声もなく、襲撃者はうつむけに倒れて、動かなくなった。







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