表紙

ダーネベルイの小さな店 12


 またぎこちない沈黙が下りてきた。 インゲはあちこちを見たり、足元に視線を落としたりしていたが、やがて緊張の増した声で話し出した。
「あのね、私もうじきマックスと婚約することになってるの」
 また短く答えを返そうとして、ヨハネスは声帯がうまく動かないのに気がついた。
 どっと思い出が蘇ってきた。 井戸端で水を汲みながら鴉をからかっているインゲ、額に皺を寄せて、ヨハネスの贈った童話の本に夢中で読みふけっているインゲ……
 初恋は一生心に残るというが、ヨハネスは淡い回想だけでなく、インゲの面影そのものを丸ごと胸に抱え込んで生きてきたのだった。 誰よりも活気があって働き者だった小娘は、都会風のしゃれた美人になって戻ってきた。 だが、中身は少しも変わっていないのを、ヨハネスは肌で感じ取っていた。 インゲは今でもインゲなのだ。 彼にとって、この世でただ一人の。
 インゲの舌が少しもつれた。
「そので……じゃない、それでね、婚約のプレゼントは何がいいかと訊かれたから、もう一度ダーネベルイに行きたいと答えたの。 一年足らずしかいなかったけど、私にとってここは、第二の故郷みたいなものだから」
 その口調には、お世辞とは言えない懐かしさがこもっていた。 だがヨハネスは胸の痛みに注意力を奪われ、失うものの大きさに打ちのめされていた。
「こんな寒い田舎が? マルメは明るくて何でもあるんだろう?」
 がっかりしたように首を下げて、インゲは短く答えた。
「まあね」
「ともかく、婚約おめでとう。 俺も近々結婚するんだ」

 大嘘だった。 妙な誇りのようなものがヨハネスに取り付き、こんな対抗心丸出しのことを言わせてしまった。
 インゲはパッと顔を上げた。
「結婚? 誰と?」
 そこまではは考えていなかった。 苦し紛れに、ヨハネスは最初に思いついた名前を出した。
「インゲだよ。 ほら、パン屋の娘、インゲボルク・ビョールセン」
「ああ……そう、よかったわね」
 とたんにインゲはそそくさとバッグを開いて改め、空気を切るような勢いで店を出ていった。


 ひどく疲れてがっかりした気分で椅子に座りこんだヨハネスは、間もなく慌て始めた。 インゲはわざわざ何日もかけて馬車で旅して戻ってきたのだ。 ヨハネスだけに会って終わりにするとは思えない。 昔の友達や知り合いに挨拶して回るだろうに、もうすぐ結婚するなんて嘘ついてしまった!
「まずい」
 エプロンを外すのも忘れて、ヨハネスは賑やかな戸外に飛び出していった。




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