表紙

ダーネベルイの小さな店 13


 夏至祭りはたいていのことが許される日だ。 若い男が毛糸で作ったかつらと頭巾を被り、小奇麗に刺繍したスカートをはいて女装して、熊の格好をした男と踊りまわっていた。 まだ夕方なのにもうすっかり酒が回って、道端にへたりこんでいる者もいる。 その一張羅のポケットから、子供が素早く銅貨を盗み出していた。
 大柄なヨハネスは、雑踏の中から首ひとつ突き出し、インゲが去った方角を見きわめた。 すると、十字路の横で、無幌馬車に乗ろうとしているのが目に飛び込んできた。

 人ごみをなぎ倒すようにして、ヨハネスはその馬車を追っていった。 どこへ止まるか確かめようとしたのだが、ストールを肩にかけようとして首を曲げたインゲに、たまたま発見されてしまった。
 ヨハネスの丈高い姿を認めた瞬間、インゲの表情が明らかに変わった。 もともと大きい眼が更に広がり、沈む寸前の太陽のようにパッと明るい光を帯びた。
 ヨハネスは立ち止まった。 周囲は彼をよけなければならず、杭に当たる水のように蛇行して流れていく。 小さな渦の中心になって、ヨハネスは半ば放心状態で立っていた。
 どちらも視線を外せなかった。 まるで見えない網をかぶせられたように、二人は同じ姿勢でじっと見つめ合っていた。
 やがて、インゲの口元に、不思議な微笑みが浮かんだ。 よく注意して眺めなければわからないほどのかすかな微笑みが。
 同時にヨハネスの口が動いた。 声は出ず、ただ言葉の形だけが、影絵のように移り変わった。
―― 嘘だよ。 嘘なんだ、インゲ。 俺が好きなのは、ただ君だけ ――

 通じたはずはなかった。 辺りは騒音に満ちていたし、埃も舞っていて、顔の細かい部分まではっきりと見て取れる状況ではなかった。
 しかし、インゲには伝わったのだった。 その証拠に、突然立ち上がると、ぎしぎし言う馬車の座席からあっという間に飛び降りてしまった。 横に座っていたマックスが泡を食って引きとめようとしたが、一瞬の差で間に合わなかった。

 そのままインゲは走った。 踊ったり歌ったりする人々にぶつかり、巻き込まれながらも、必死でヨハネスのところに行こうとした。
 少しの間しびれたようになっていたヨハネスも、すぐに女装男や熊をかき分け、泳ぐようにインゲに近づいた。
 そして、遂にヨハネスの強い腕がインゲを探り当て、抱き取った。 ちょうどそこへ、町を一巡していた楽隊が小路を回って戻ってきて、太鼓の響きが四つ角に轟き、一段と混雑が激しくなった。
「どけ! くそっ、小汚い奴らめ! どけっていうんだ!」
 続いて馬車から降りたマックスが、怒鳴ったりステッキで殴ったりしながら道を開けさせて小路にたどり着いたとき、もうヨハネスとインゲの姿はどこにも見えなかった。


◆◇◆◇◆◇◆


「やっと帰ってきた…… 私、戻ってこられたんだわ」
「夜中に黙って出ていったくせに」
「だって、顔を見たら絶対行けなかったもの。 しがみついて離れなくなっちゃったと思う」
「インゲ……」
「ヨハネス、ヨハネス!」
 教会の裏手にある草地で、二人は固く腕を巻きつけたまま、仔犬のようにうずくまっていた。 夕空にはもう月が昇っていて、まだ地平線の上でためらっている太陽と淡い光を反射し合っていた。
「結局親たちは帰ってこなくて、商業権もマックスの一族に引き継がれちゃったの。 それが目当てで、彼らは私を引き取ったのよ。
 でも、新しい条約で町の土地が戻ってきて、それは当然私のものになるの。 マックスはその土地も狙ったんだわ」
 それだけではないだろう。 マックスの横柄な態度、意地悪な口調は、おそらく自分に対する嫉妬からだと、今ではヨハネスにも察しがついていた。
 しなやかな腕をヨハネスの背中に回して、インゲは彼の耳から首筋、胸と順々に唇でたどっていった。
「こんなに胸巾が広くなって。 あなたはまるでオーディンみたい」
「ただの靴屋だよ」
 顔をうつむけて、ヨハネスは囁き返した。
「小さな町の、小さな靴屋だ」
「知ってる? 私ね、ここに来て二日目で、あなたのお嫁さんになりたいと思った。 だからとんな仕事でも覚えようとしたし、苦になんかならなかった。
 母さんはよく言ってたわ。 ねえインゲ、一緒に死んでもかまわないって人を見つけなさいねって。
 あなたなら、そう、ヨハネス・マドセンなら、私、一緒に死んでも後悔しないわ!」
 きれいに結い上げたインゲの髪は、すっかりほどけて光の糸のように肩を覆っていた。 その髪をすくい上げて唇に当て、ヨハネスは目を閉じた。
「俺は、君と別れてからインゲボルクをインゲと呼んだことは一度もなかったよ。
 インゲは俺にとって、ただ一人だった」
「そう? じゃ何でさっき名前を出したの?」
「……君が婚約するなんて言うから……もう責めるなよ。 あんなの口から出任せなんだ。
 喜ぶよ、親父もカーリンも。 カーリンは余計な気を回してたんだ。 自分みたいな未亡人が家にいるから、俺がなかなか結婚相手を見つけてこないんじゃないかって」
「私ならカーリンとうまくやれる」
「そうだ。 この町の誰よりもね」
 二人の息が混じりあった。 唇が何度も何度も重なり、やがて崩れるように二人の体は草の中に消えた。

【終】







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