表紙

ダーネベルイの小さな店 8


 それからも夏は来た。 太陽は白く光り、木苺は藪をひっそりと赤く染めた。
 だが、ヨハネスにとって、あれほど輝く夏は二度と訪れなかった。 インゲからは一通の手紙も来ず、まったく縁は切れていたが、それでも生き生きとした少女の面影は明け方の夢にふっと現れ、ヨハネスの鼓動を激しくさせる力を持ちつづけていた。
 インゲが急にいなくなったことで、インゲボルグは再びその名で呼ばれるようになり、大人ぶって長くしたスカートで街を歩くと、昔仲間の少年達に口笛を吹かれるほど娘らしく成長していった。
 しかし、ヨハネスは彼女を嫌った。 話しかけられても無愛想に振り切ったり、通りで会うと、わざと顔を背けて道を曲がったりした。 それもこれも、ただ一つの理由のためだ。 彼にとって、インゲはこの世で一人だけだったのだ。

 グンナールは並みの身長だったが、ヨハネスはぐんぐん大きくなっていった。 来年で二十歳という年ごろになると、頭が敷居につかえるほどで、顔立ちも少年の頃とはずいぶん変わり、眉と目の間隔が狭まって、鷹を思わせる精悍な印象を見る人に与えた。
「ヨハネスは男らしくなったわね」
 そうカーリンは、教会の集まりで奥さん達に言われるようになった。
「褐色の髪が先のほうで金色に薄くなって、まるで後光が射してるみたい。 目はくっきりした青だし、うちの娘なんか、ヨハネスが道を通るたびに窓に飛んでいって、溜め息ついて眺めてるのよ」
「娘の友達もそう。 ヨハネスの作った靴を履きたいってお小遣いを貯めてるそうよ」
 そのたびに、カーリンは気弱そうな微笑を浮かべて答えるのだった。
「そう? でもあの子、靴作りに打ちこんでて、女の子と出歩く時間がないようなの」


 父のグンナールが見込んだ通り、ヨハネスは器用で、しかも忍耐強かった。 研究熱心な彼は、まだ見習いだった時分、靴底直しとか縁飾りの縫い直しをコツコツやりながら、持ちこまれる沢山の靴の踵の形、甲の幅と足型の関係、履き込みの深さなどをじっくり研究し、履きやすくてしかも格好のいい靴を作りだすべく工夫を重ねた。
 その試みは、一人前になった今になって生きた。 ヨハネスの作った靴はぴったりしているのに指が自由に動き、とても歩き易いと評判が立って、小さな靴屋はいつも予約で一杯になっていた。
 インゲボルクの『インゲ』もそういったお得意さんの一人だった。 パン屋の一人娘で、大事に育てられたインゲボルクは、小さいときははにかみ屋だったが、いつの間にか町一番の美人に育ち、年ごろになった去年あたりから勿忘草〔わすれなぐさ〕色の瞳を上手に使って、何人もの若者の胸を焦がしていた。

 春になって、新しい靴が必要になると、インゲボルクは友達と連れ立って、笑いさざめきながらヨハネスの店にやってきた。
 とりどりに並んだ花のような顔を見て、グンナールは厳しい顔をわずかにゆるめ、店先から奥へ呼ばわった。
「ヨハネス! お客さん方だ! お相手をしろ!」
 若い世代は、男も女も既にヨハネスの担当だった。 グンナールは昔からのお得意さんに専念し、新しい客は、たとえ中年以上でも息子に任せることにしていた。
 裏庭で薪割りをしていたヨハネスは、積み重ねた薪を台所へ運んでから仕事用の前掛けを素早く被り、店へ出た。 背の高いその姿が店の奥から現れると、娘たちの視線が一斉にそそがれた。
 ハンナという鍛冶屋の娘が、興奮のあまり神経質に笑いながら話しかけた。
「あのう、私たちブーツが欲しいんです」
「はい。 どんな形ですか?」
 穏やかに、ヨハネスは注文票を手にして尋ねた。 つい数年前までは鼻を垂らしていた小娘だが、今では大事な客だ。 そっけなくはできなかった。
「短くて、軽いもの」
「先が尖ってて、踵がこのくらいの高さで」
 娘たちは次々と注文した。 インゲボルクは黙っていたが、言葉よりも物を言う淡青色の眼で、幾度もちらちらとヨハネスに想いを伝えていた。


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