表紙

ダーネベルイの小さな店 7


 その夜、ヨハネスはなかなか寝付かれなかった。 狭い屋根裏部屋の黒い梁〔はり〕が、いつもよりいっそうのしかかってくるように低く見えて重苦しく、何度も寝返りを打った。
 隣りの部屋には父が、その隣りにはカーリンと、そしてインゲが寝ている。 インゲの淡い金髪が枕に広がっているところを想像して、ヨハネスは息が詰まりそうになった。
 実際には、二人の女性は寝る前に髪を二つのお下げに編んで、ナイトキャップに押し込んでしまう。 だからヨハネスの空想はあくまでも夢の世界なのだが……
 四度目に体の向きを変えたとき、ひそひそ声が聞こえたように思った。 錯覚かもしれない。 夜中になっても日が沈まない白夜という現象にたぶらかされて、幻の音を聞いているのかもしれなかった。
 やがて、廊下がきしんだ。 複数の人間が足音を忍ばせて階段を下りていった。

 今度は確かに幻聴ではなかった。 外で、低くいななく馬の声がしたので、ヨハネスはベッドにはね起き、一直線に窓へ駆け寄った。
 不安は的中した。 眼下の道には、いつの間にか馬車が横付けされていて、木製の折りたたみ階段が下ろされ、見慣れないドレスを着たインゲが乗り込むところだった。
 ヨハネスの手が、喉を押さえた。 声を出したかった。 胸の中に怒りと悲しみの入り混じった、蒸気のようなかたまりがこみ上げ、今にも破裂しそうだった。
 一度も振り向くことなく、インゲはさっと馬車に入った。 続いて、灰色の服を着た見知らぬ男が乗り、御者が手綱を操って二頭の馬を動かした。
 束の間の出来事だった。 夏の夜の夢としか思えないような。 だがそれは、夢ではなかった。 馬車が去り、再び無人になった石畳の道を、ヨハネスは無言で見つめ続けた。 胸はすでに冷え、池に投げ込まれた煉瓦のように深く、重く沈んでいった。


 一睡もせずに朝を迎えたヨハネスは、だるそうに靴を履いて階段を下りた。 湯をわかしていたカーリンが、薪をくべるために曲げていた腰を伸ばして、赤い眼で甥を見上げた。
「おはよう」
「おはよう」
 なんとか挨拶を返すと、鵞鳥に餌をやるために裏口から出ようとしたヨハネスを、カーリンの細い声が追ってきた。
「インゲにね、迎えが来たの」
 ヨハネスは足を止めたが、振り返らなかった。
「そう」
 自分の声が遠くに聞こえた。


 夕方、金持ちの家へ注文を取りに行っていた父が戻ってきた。 疲れた様子で寸法表を取り出し、点検して引き出しに入れてから、ぐらつく椅子の脚を直している息子に声をかけた。
「明後日でおまえも十三だな。 そろそろ仕事を覚えろ。 もう遅いぐらいだが」
 ヨハネスは、ゆっくり椅子を床に置いた。 そして、唐突に尋ねた。
「ねえ、父さん。 インゲって、どこの子?」
 答える前に、グンナールはがっしりした両手を机に置いた。
「聞いてどうする」
「どうするって……もう帰っちゃったんだから、教えてくれてもいいでしょう? もう、うちには関係ないんだから」
 その声は荒れてざらざらしていた。 ちらっと息子を見やった後、グンナールはぼそっと呟いた。
「ショールという、大きな穀物商の娘だ。 マルメの近くに立派なお屋敷があったんだが、この前の戦争でロシアに領土を取られたとき、両親が人質にされて、近所に匿われたあの子だけが残ったんだ」
 戦争……それは、国王カール十二世が北欧の覇権をかけてロシア・デンマーク・ノルウェー・ザクセンの連合軍に挑んだ戦いだった。 最初はスウェーデンの連戦連勝だったが、ロシアが焦土作戦で対抗し始めた千七百九年から旗色が悪くなり、千七百二十一年のニスタットおよびストックホルム条約で終戦を迎えたときには、バルト海の制海権はスウェーデンからロシアの手に移っていた。
 この中部では敵が攻めてくることもなく、あまり戦争の実感はなかったのだが、南部は相当ひどい目に遭ったらしいとは聞いていた。 その犠牲者のひとりが、インゲだったのだ。
 また椅子に手をかけながら、ヨハネスはさりげなく訊いた。
「それで、親が釈放されて、迎えに来たの?」
「いや」
 グンナールの眉間の皺が深くなった。
「引き取りに来たのは親戚だ」

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