表紙

ダーネベルイの小さな店 6


 頬にキスされたんだ、と気付いたとたん、ヨハネスはカアッと顔が熱くなった。 あわてて袖で頬をぬぐったが、いっそう血が上ってくるばかりで、おまけにインゲがふくれてしまった。
「何よ、ありがとうっていう印じゃない。 それを拭いちゃうなんて失礼よ!」
 そう言うがはやいか、インゲは飛びついてきて、もう片方の頬にチュッと音を立ててキスした。
 グンナールが鹿皮をしっかり握ったまま、ドラ声でたしなめた。
「静かにしろ。 ヨハネスもそのぐらいで照れるんじゃない」
 カーリンが、可笑しそうに口元をぴくぴくさせながら下を向いた。 大人ふたりは、ヨハネスとインゲが仲よくなるのを、ほほえましく眺めているようだった。


 凍りついた地面はじれったいほどゆっくりと融けていき、春とは名ばかりのじめじめした季節を過ぎて、ようやく初夏が訪れた。
 北国の短い夏を生き急ぐように、一斉に花が開いた。 柔らかな綿毛が飛び交う野原へ、インゲはヨハネスと連れ立って、野苺を摘みに出かけていった。
「ここ、この辺だよ」
「どこ?」
「ほら、すぐ横」
 ヨハネスは膝をついて、細長い茂みの下から黒みを帯びた実を引き出して見せた。
 すぐにインゲも籠を手にしゃがみこみ、二人は夢中になって次々と採っていった。
 やがて、二つがくっついて大きくなった実を指にはさんで、ヨハネスが振り向いた。
「こういうのは特別に甘いんだ。 ほら、口あけてごらん」
 言われたとおり、インゲが丸く口を開くと、ヨハネスがそっと苺をくわえさせた。
 太陽が金色の筋になってインゲの首筋を包んだ。 真っ白な肌に産毛がやわらかく光っている。 きれいだった。 そのうぶな美しさにうっとりして、ヨハネスは吸いよせられるように細い首に顔を近づけた。
 インゲは身をよけなかった。 ヨハネスの唇がそよ風のように顎の横をかすめても、まるで気付かないようにじっとしていた。
 避けられなかったことで、ヨハネスは大胆になった。 インゲのふっくらした頬に頬を寄せ、肩に腕を巻いて胸に抱き入れた。
 こめかみがどくんどくんと脈打っていた。 インゲの鼓動も速くなっているのが、腕の下の感触でわかった。
 顔を動かして鼻をこすり合わせるようにしながら、ヨハネスは囁いた。
「かわいいインゲ」
 インゲの口元がわずかに動き、閉じたまま仄かな微笑を形作った。 その端に、ヨハネスは震えながら唇を置いた。 木苺の籠がインゲの膝から落ち、草の上に横倒しになったが、ふたりはどちらも気付かなかった。

 長い夏の一日でも、夕方になると気温が急激に下がる。 しばらく抱き合ってじっとしていた二人は、湖のほうから吹きよせてくる東風に抗しきれなくて、手をつないだまま立ち上がった。
 やましいことは何もなかった。 本物のキスさえ交わしてはいない。 しかし、二人の心は罪を感じていた。 形のない、恋という不思議なものに戸惑って、行くべき道を照らしてくれる確かな灯りを求めていた。
「こぼれちゃった」
 足元を見下ろして、インゲが呟いた。 すぐにヨハネスは腰をかがめて、素早く全部を拾いあげ、籠に入れた。
 木苺は茶色の籠にあふれそうなほど盛り上がっていた。 落とさないようにしっかりと持って、ヨハネスはもう片方の手をインゲに差し出した。
「帰ろう」
 インゲはうなずいた。 二人はなんとなくうつむき加減に、夕暮れの道を寄り添って歩いていった。

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