表紙

 -51- 緊張の対面




 それはリオネル・カステルシャルム侯爵だった。
 彼の姓名を思い出すたびに、クロエは腹が煮える思いを味わった。 だから追い詰められたような気分になっているのを隠すためもあって、顎をつんと上げ、皮肉をこめて、こう呼びかけた。
「あら、リオネル・トマさん」
 リオネルは、肩をわずかに動かした。 舞踏室の照明を背に受けているため、顔は影にしか見えない。 その薄暗がりから、低い声が夜気を縫って伝わってきた。
「本名を名乗らなかった失礼をお詫びします」
 以前と同じ、礼儀正しい口調だった。 だがあのときは丁寧に聞こえた言葉遣いが、今は慇懃無礼〔いんぎんぶれい〕に感じられた。
「私も失礼な誤解をして、申し訳なく思っています。 貴方ほどの方を従僕とまちがえるなんて」
 クロエが答えた後、白々とした間が空いた。


 ここへ出てきた目的を思い出して、彼女は素早く舞踏室へ戻ろうとしたが、前の出入り口はリオネルの大きな体が塞いでいる。 仕方なくバルコニーを見渡して、一つ横の戸口を目で探した。
 その最中、再びリオネルが重い口を開いた。
「すぐお詫びに伺ったのです。 でも折悪しく、天が裂けたような大雨で」
 あの嵐の晩……?
 絶望と惨めさに雨音が追い討ちをかけて、朝までほとんど眠れなかった。 最悪の夜だった。
「貴女がお泊りの部屋は知っていました。 晴れていたら柱を伝って登ってしまったかもしれない。 それぐらい度を失い、後悔で一杯でした」
 クロエの唇が、細かく震えた。
 信じられない。 レオニーの屋敷で初めて正体を現したとき、彼の目は冷たかった。 いたずらっぽさも輝きもなく、まして後悔の念なんかかけらもなかった。
 石の像のように立ち尽くしているクロエに、リオネルは語り続けた。 独り言に似た、平板な声で。
「窓に手袋を投げました。 何度もやりましたが、気付いてもらえなかったのでしょう。 風雨の音がひどすぎて」
 手袋?
 クロエの表情が、初めて動いた。 翌朝、確かに上等な男用手袋の片方が、ぐしゃぐしゃになった庭の片隅に落ちていた。
「知りませんでした。 でも手袋は……庭で見ました」
 返した声は、おぼつかなかった。 その様子を見て、リオネルはいくらか活気付いた。
「では、手紙は? 翌朝書いてお届けしたものは? なかなか受け取ってもらえなかったと、使いの者が言っていました」
「あれは……」
 喉に言葉がからんだ。 声をかすれさせたまま、クロエは短く答えた。
「読んでいません」
 はっきりわかるほど、リオネルの肩が落ちた。
「捨てたか、燃やしました?」
「……いいえ」
 そうできたら、どんなに楽になっただろう。
 だがクロエにはできなかった。 最初で最後に、好きな人から貰った手紙。 いつか気持ちが静まり、いくらかでも幸せになって、過去をゆっくり思い返すゆとりができたら、と自分に言い聞かせ、日記帳に挟んでいつも持ち歩いていた。
「しまってあります。 そのまま」
「このパリに?」
「はい」
 その瞬間、リオネルは呪縛を解かれたようになった。 いきなりクロエの前に歩み寄り、レースの手袋に包まれた手を掴んで、唇に持っていった。
 燃える息が願いとなって布地を通り抜け、敏感になった肌を焼き焦がした。
「お願いです、読んでください! 私がどんなに愚かだったか、どうしてあのような失敗をしてしまったか、すべてあの中に書いてあります」
「でも……」
 クロエが説明を求めようとすると、リオネルは急いで手を離し、つらそうに後ずさった。
「私は無骨で、気持ちをうまく表せないのです。 家族にもよく言われます。
 しかし、口下手だからといって、感情がないわけじゃない。 書いたほうが、まだ伝えやすいんです」
 そう言いながら、リオネルの足はバルコニーの外階段にかかった。
「貴女に逢いたかった。 でも顔を合わせるのは怖かった。
 勇気が出たのは、賭けに負けたからです」
「なぜ?」
 クロエは息だけで尋ねた。 段を半ばまで降りたところでリオネルに灯りが当たり、端整な顔に寂しげな微笑が浮かんだのが見えた。
「もともと賭け事は好きじゃないんです。 辛いことが立て続けに起きたので、やけになってのめりこんだだけで。
 大負けしたら面目を失って、スウェーデンに逃げ帰る口実ができると思いました。 でもなぜか負けなくなってしまったのです。 儲けて恨まれる有様でした。
 そうなると、もう簡単に抜けられません。 負けた連中が、勝つまで止めさせてくれない。 まるで呪いにかけられている状態でした。
 そこへあなたが戻ってきて、その呪いを解いてくれた……」
 クロエが立ちすくんだまま目で追っているうちに、リオネルの声は次第に遠ざかり、彼の姿が階段を降り終えて、建物の陰に消えていった。












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