表紙

 -35- 身分違いは




「これは、本当にあったことなのよ。
 去年……いえ、もう一昨年になるわ。 ある貴族の令嬢が、織物の見本市で商人の息子と出会い、恋に落ちたの。
 令嬢は社交界デビューですぐ花形になった麗しい人だった。 そして相手の男も、絵に描いたような美男子だったそうよ。
 彼の父親は成り上がりの野心家で、次は金を使って貴族の位を狙っているという噂だった。 実際、今では男爵になっているわ。
 それでも令嬢の父上にとっては、まったく足りない相手だった。 父上は商人の結婚申し込みを一蹴し、屋敷への立ち入りを禁止したの」


 向かい合った座席で揺られながら、クロエはうつむいて、膝の上のハンカチを握りしめていた。 身分違いの恋がどんなに難しいか、子供のころから言い聞かされてよく知っている。 特にクロエは下々の者たちと遊び回るのが好きだっただけに、耳にたこができるほど注意された。
 クロエ本人はともかく、近所の子たちは立場の違いをよく心得ていて、慈悲深い侯爵のお嬢様に手を出すような馬鹿は一人もいなかった。 それに、侯爵も用心深く、遊び仲間の中にこっそり見張りを忍ばせていたらしく、いたずらが過熱しそうになると、いつも上手に気分をそらせて収める子がいた。


「でも、わかるわよね。 禁じられたらいっそう恋は燃え上がるものなの。
 令嬢は忠実な召使に頼み、男とこっそり連絡を取って、駆け落ちしようとした。 大胆ね。
 だけど、父上だってそのぐらいの予測はつくわよ。 召使から無理やり予定を聞き出して、先手を打って令嬢を閉じ込めた。
 そして男を待ち伏せして屋敷に連れ込み、駆け落ちしたら娘を勘当して一切の縁を断った上、商人の出世を全力で邪魔してやると言ったの」
 膝のハンカチを見つめたまま、クロエは低く尋ねた。
「それで、駆け落ち相手は諦めたんですね?」
「そうよ」
 ブランソー夫人はあっけらかんと答えた。
「その男に本物の愛情がなかったとは言わないけれど、大した深みがなかったのは確かね。
 令嬢は男の心変わりを聞かされても、すぐには信じなかったそうよ。 何通も手紙を書いて、最後にやっと届いた返事で、真実を悟ったのですって」
「お気の毒に」
 思わずクロエは呟いてしまった。 ブランソー夫人はちらっと姪を見て、話を続けた。
「令嬢は冷静に受け止めたように見えた。 悲しむより怒っているようだったと聞いたわ。
 家族はみんな彼女に気を遣い、慰めようとした。 やがて彼女も元気を取り戻して、散歩や芝居見物に行くようになった。 私も会ったわ。 少し痩せていたけれど、相変わらず美しかったわよ。
 だから家族も安心して、元の生活に戻った。
 周りの目がなくなったその夜に、彼女は屋敷の一番高い塔に上って、そこから身を投げたの」










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