表紙

 -31- 思わぬ人影




 だが、そんなふわふわした定まらない気持ちでいられたのは、わずかな間だけだった。
 まるで優勝カップのように求婚者を集めるきっかけになったサンパトリックのプロポーズから、二週間近く経った夏の宵、クロエは伯母と共にデシャンクール伯爵の夜会に出席した。
 その日は朝から蒸し暑く、太陽が沈んでも気温がなかなか下がらなかった。 おまけに、今シーズン最高の人気者クロエを勝ち取ろうと、求婚者のほとんどがデシャンクール邸に駆けつけているため、なおいっそう熱気は増した。
 ちやほやされ、取り囲む男たちの恋の鞘当てを見せつけられているうちに、クロエはすっかり疲れてしまった。 彼らはみな身分が高く、気位も高い人々で、うっとうしくても粗末に扱うことはできない。 ずっと笑顔を貼りつけているうち、頬が疲れて痙攣してきた。
 ちょっと席を外して庭園に出た後、クロエは舞踏室にすぐ戻るのをためらい、屋敷にほど近い庭木の横で休んでいた。 柳らしいその木の幹は肌触りがよく、寄りかかって額をつけると、ひんやりした心地よい感触だった。
 クロエの分別と社交界慣れに安心したブランソー夫人は、姪を崇拝者たちに任せて、友人たちと世間話にふけっていた。 クロエが人だかりの中に姿を消していても、まるで心配していない。 そして求婚者たちは互いに牽制し合っていて、肝心のクロエがなかなか帰ってこないのに、まだ気付いていない様子だった。


 そろそろ中に入らなくちゃ。
 クロエは物憂い気分で、木肌を軽く撫でながら自分に言い聞かせていたが、足がなかなか前に出なかった。
 もう真夜中をとっくに過ぎている。 家に帰って眠りたいなぁと思いながら、幹の陰から一歩踏み出した爪先が、ぴたりと止まった。
 庭に面するルイ十四世風の大きなガラス扉の横に、背の高い姿が寄り添っていた。
 全身が黒い服に包まれているので、中からはほとんど見えないだろう。 しかも、目立つ金髪は帽子にしっかりと収められていた。
 クロエは気付かないうちに、口を手で覆った。 激しくなった鼓動で、こめかみがどくどくと脈打った。
 リオネルだ!


 男の手がガラスの縁を伝い、頭が横に動いた。 彼は誰かを探している。
 その相手が自分だということを、クロエは直感で悟った。
 リオネルが私を見たがっている!
 そうわかった瞬間、胸が花火のように弾けた。 これまで育ちのいい躾〔しつけ〕の中に封じ込めていた本心が、無意識の暗がりの奥から飛び出してきた。 もう押さえつけることは不可能だった。
 よく手入れされた芝の上を、クロエは走った。 夜風が熱にのぼせた頬を打つ。 風向きに逆らって進みながら、クロエはようやく知った。 怖かったのはリオネルではない。 自らの心に潜む、この炎のような情熱だったのだと。










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