表紙目次文頭前頁次頁
表紙

誓いは牢獄で  46


 アンドリュースに助け起こしてもらって、コーネリアはなんとかカウチから立ち上がった。
 体中が疲れきっていた。 そして、心はもっと磨り減っていた。
 死刑台での恐ろしい死を覚悟するのがこんなに消耗するものだとは、想像の外だった。 わずか一時間の恐怖でこれなら、何日も死刑囚として過ごした『バーンズ』の苦しみはどれほどだっただろう。


 コーネリアは、壁を伝うようにして部屋の外に出た。 足を引きずって廊下を歩いているうちに、少しずつ力が戻ってきたので、懸命に急いで裏庭の方角に向かった。

 ホリスは確かに、まだそこにいた。 どうしても納得できないようで、つまらなそうに空を見上げているダーリンプルに食い下がっていた。
「だが、見ろよ。 泥棒の仲間割れなら、こんな高価な品を被害者のポケットに残したままで行くか? 絶対に持って逃げるはずだ!」
「わしに言われてもわかりませんねえ。 泥棒じゃないでやすから」
「これは恨みか口封じの犯行だ。 とすれば、こいつはお前の言うとおり、バーンズじゃなく、後から尾行してきた仲間かもしれん。 こいつに襲われて、本物のバーンズが刺し殺した。 それなら辻褄が合う!」
 樫の幹に寄りかかって、無表情に二人の話を聞いていたバージルが、フランス窓から出てきたコーネリアに気付いて顔を上げた。
 二人の視線が、空中で交わった。 コーネリアの喉が、ごくりと鳴った。
 視線を外せずに見つめ合ったまま、コーネリアは執拗な従兄弟に冷たく声をかけた。
「もうあなたの話は聞き飽きました。 事実が明らかになったのですから、もう帰ってください」
 ホリスの頬が、ぴりっと引きつった。
「あなたは、この井戸に何が落とされたか知っていたはずだ。 井戸のほうばかり見ていたと、ベティが……」
「ベティは、私よりもあなたに忠実な召使なのね」
 すかさず、コーネリアはびしっと遮った。
「それなら一緒に連れていってやってちょうだい。 今日ここで首にしますから」
 背後の窓で、息を吸い込む音がした。 それから、バタバタと走り去る靴音も。 コーネリアは振り向かず、バージルの視線から目を外して、空を見た。
「雲が切れたわ。 旅にはよい天気になりました。 それではホリス、ごきげんよう」
 ホリスは顎を上げ、いまいましそうに白いタイを整えてから、大股で馬屋の方角に歩き出した。 彼が馬を自ら引き出し、荒っぽく乗って走り去るまで、コーネリアとバージルは無言で見守った。
 ホリスが門を出て完全に消えてから、コーネリアはゆっくりバージルに近付いた。 脚が鉛のようで、なかなか前に進まなかった。
「何からお礼を言ったらいいか……こんな思いがけない結果になるとは、思ってもみませんでした」
 声が細かく震えた。
「あの男が本物のバーンズだと思い込んでいたものですから」
「キルビーはバーンズの敵でした」
 樫の木から体を起こすと、バージルは静かに言った。
「牢獄の中で、バーンズを暗殺しようとつけ狙っていました。 だから、バーンズが釈放されたと聞いて、仕返しを恐れ、脱獄したのです」
 コーネリアは激しく動揺した。
「それなら、なぜここに? 先に本物のバーンズが来ているかもしれないのに」
「ありえない、と思ったのでしょう」
 バージルの声には、まったく抑揚がなかった。
「絞首台で死んでこそ、あなたの夫としての役割が果たせる。 生きて現れては、迷惑なだけですから」


 コーネリアは、言葉が出なくなった。 自己嫌悪が岩のように落ちかかってきて、目の前が暗く閉ざされた。








 それから十五分後、ロンドンから駆けつけてきた三人の男たちは、それぞれの馬や馬車を引き出して、今にも乗ろうとしていた。
 玄関の前で、コーネリアは、彫刻のように笑みを顔に貼り付け、去って行く人々を見送った。
 泉のほとりで静かに坐り、優雅に交差した長い脚の上に紙を置いて、金色の水仙をスケッチしていたバージルの姿が、脳裏に浮かんだ。
 穏やかで、美しい光景だった。 今にして思えば、生き返って再び春に巡り合えた喜びが、全身を光に輝かせていたのかもしれない。


 そのまっすぐな強い脚が、あぶみに乗って力強く愛馬にまたがった。 とたんに、見守るコーネリアの視野が、ぼんやりとかすんだ。
 泣いちゃいけない。 急いで、血が滲むほど強く下唇を噛んだ。
 母が亡くなってから、コーネリアの家族は男ばかりだった。 近所は離れているし、もともと乳母は置かなかったし、小間使いたちは申し合わせたように無口で、いい話し相手にはなってくれずじまいだった。
 だから、手後れになるまで気付かなかった。 この落ち着きなく揺れ動く胸の動悸が、不安からではなく、恋ゆえだということに。


 ダーリンプルが、ぜいぜい言いながら馬車の御者席に上がった。 荷台には、布でくるまれ二箇所で縛られた物体が、不気味に横たわっていた。
 トーマスが馬上で振り返り、帽子を取ってコーネリアに頭を下げた。
「それでは、これで失礼します。 1日も早くお元気になられますように」
「道中ご無事で」
 コーネリアは丁重に答えた。
 馬上で、バージルは一度も邸を見なかった。 まっすぐに頭を立てて、行く手の外門に目を据え、はやる馬を片手でなだめていた。
――あの人は我が家に帰りたいのだ、一刻も早く――
 コーネリアは、こめかみに指を当て、目を閉じた。 じっと動かないまま、心の中だけで思い描いた。 全力で駈けていって、あの馬に引き上げてもらう自分の姿を。 生まれて初めてコーネリアは、愛する領地を置き去りにしても彼と行きたいと願った。
 馬が首を振り、ブルッと鼻息を立てた。 いよいよ出発だ。 二頭の馬が並んでまず進み、後ろから馬車がゆっくりと従った。
 もう彼は振り向かない。 コーネリアは一歩踏み出し、バージルの姿を瞼に焼き付けておこうとした。 だが目に涙があふれて、灰色の上着が波のようにうねって見えるだけだった。

 そのうねりが、不意に止まった。 並んでいたトーマスから少し遅れて、バージルは鞍の後ろに片手を置くと、上半身をねじ曲げて振り返った。
 邸を食い入るように眺めわたしていたその視線が、玄関前に立ちすくむコーネリアを捕らえた。
 涙に覆われたコーネリアの眼にも、彼の口が驚きで開くのが見えた。 三つ数えるほどの間、二人は石になったように見つめ合った。
 それから突然、バージルは生命力の塊になった。 馬がよろめくほどの勢いで飛び降り、一直線に走った。









表紙 目次文頭前頁次頁
背景:Star Dust
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送