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 その日のフィレンツェは午後になると猛烈に太陽が照りつけ、しかもほぼ無風で、蒸し暑いことこの上なかった。
 出稼ぎチームの中で真っ先に音を上げたのは、師匠のシャンパーニュ画伯だった。
「こんなに気温があがっては、とても溶接などやる気にはなれんな。 キュロスの浮き彫りは明日取り付けよう。 さあ、夕涼みだ!」
 弟子たちは喜んで、涼しい中庭に椅子を持ち出し、冷やした酒や果物をどんどん運んできた。
 セルジュも身軽に準備に加わり、仲よくなった兄弟子たちと談笑していた。 そうやって小半時ほど経とうとしたとき、パウロという門番の息子が外から入ってきて、セルジュに耳打ちした。
「裏口のところに、あんたに会いたいっていう女の人が来てるよ」
 セルジュは少し考え、近くに置いてあった鑿〔のみ〕をポケットに忍ばせてから、そっと酔っ払いの輪を抜け出した。

 裏木戸の横には、大きな楡の木が枝を広げていた。 その木陰に、夏の盛りだというのにヴェールを被った女がたたずんでいる。 からだつきからして、まだ若そうだった。
 セルジュが現れると、女はすっとその横に寄り添った。 そして、ふくみ声で囁いた。
「驚かないのね」
 まったく無表情のまま、セルジュは答えた。
「蛇の道はヘビと言ってね、おまえがマチュー親分に取り入って身代わりの娘を殺させ、自分は親分の色女になったことはすぐ伝わってきたよ。
 クロには知らせていない。 生き延びるためにおまえが何をやったか知れば、さぞ悲しむだろうからな」
「笑わせるんじゃないよ!」
 女は不意に怒り出して、足を踏み鳴らした。
「こそ泥にお説教されるほど落ちぶれちゃいないさ! それどころか、今じゃ親分に一言頼めば、あんたを波止場に浮かぶ土左衛門にだってできるんだからね!」
「そうかい」
 セルジュはまともに相手にしなかった。
「そうやって脅すのが用件なら、もう行くぞ。 仲間が待ってるんだ」
「違うよ」
 さぞ驚くと思ったのに、あてが外れたシルヴィーは、あわててセルジュの前に回りこんだ。
「今日はめでたい知らせを教えに来たのさ。 あんたの大切なお嬢様が、半月後にご立派な侯爵様と式を挙げるんだって!」



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