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 あけぼのの光が薄青く大気を染め、右手に連なる山を照らし出した。
「ヴォクリューズ山地です」
 皮製のしっかりした手袋をはめた手で、トーメ侯爵は静かな山肌を差し示した。
「こうして眺めると平和ですね。 ここでも教皇派と新教徒がいざこざを起こしているようには、とても見えない」
「勢力争いは世の常ですよ」
 トーメは軽く受け流した。
「星でさえ引き合ったりぶつかり合ったりしているのですから」
 彼は、まるっきりの世間知らずではなさそうだった。 ほっとして、エレはいよいよ用件に入った。
「叔父上のメルヴァン殿が訴状を出そうとしているようですよ。 あなたは跡継ぎなのに妻を娶ろうともしないで星覗きにうつつを抜かしている。 これではとても領地の監督などできないと」
「現にやっていますから」
 トーメは平然としていた。
「父の時代より収穫高は確実に増えています。 ぶどう畑の面積を二割ほど増やし、トリュフ探しも行き当たりばったりじゃなく、地形や気候を考えてやるようにしたら多くなりました。 差配を三年ごとに配置換えするようにしてから、わいろや税の二重取りも減りましたし」
 エレは思わず、隣りをのんびりと行く男のすっきりした顔を、まじまじと見つめてしまった。 一日にわずか二、三時間しか人と接しない人間が、働き者だった父親より上手に領地を経営しているとは!
 トーメの無邪気な自慢は、誇張ではなさそうだった。 斜面に広がるぶどう畑は手入れが行き届いているし、道端のオリーブの木は大きく枝を広げて活き活きとしていた。
 それで、エレは素早く次の手を打った。
「あなたはここが大好きだし、領民もあなたに領主でいてほしい。 とすれば、叔父上に口出しさせない方法はただ一つ、奥方を迎えることね」
 とたんに、手綱を軽く握っていたトーメの指に力が入った。 見ると、涼しい朝なのにこめかみに汗がにじんでいる。 エレはびっくりした。
「お気にさわりました?」
「いや……」
 人が変わったような弱々しい声が返ってきた。
「わたしは……あの……女性という存在に興味が持てなくて」
 万才! と、そのときエレは思った。



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