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 当時、貴婦人たちは慈善に熱心だった。 マールも、母や親戚の夫人に連れられて、救貧院や孤児院を慰問に行ったことが何度かあり、自分たちの豊かな小世界の外側には気が遠くなるほどの惨めさが広がっていることを知っていた。
 だからこそ、シルヴィーからセルジュを奪ったことに心の咎めを感じていた。 セルジュ自らが熱望した結果だとしても、マールは彼を頼り彼に寄り添って育ってきた娘から、大事な『家族』を取り上げてしまったのだ。 何でも買ってもらえる子供が孤児のパンを横取りしたような、後味の悪い気持ちだった。
 答えない娘を見て、エレは悟ったようだった。
「恋の恨み?」
 ずばっと言い当てられて、マールは動揺した。
エレは勢いよくスツールから立ち上がり、娘の背中をポンと叩いた。
「恋は戦いじゃないし、男も戦利品じゃない。 シルヴィーは邪魔者を消そうとして、セルジュの心をかえって遠くへ追いやってしまったと、私は思うわ」

 新しく用意された寝室に入ると、マールは真っ先に窓辺へ向かった。 そして、お白粉を水で濡らして指につけ、窓に薔薇を一輪描いた。 セルジュが様子を見にきたとき、ここに無事でいるとわかってくれることを期待して。
 明け方、その願いは叶った。 ぐっすりと眠っているマールの枕元に音もなく影が立ち、枕の横に本物の薔薇のつぼみを一つ、そっと置いて去っていった。


 その頃、そろそろ起きる準備をして脚をベッドから垂らし、靴をはこうとしていたクロは、突風のように走りこんできた妹に驚いて、左の靴を床に落としてしまった。
「なんだよ、尻に火がついたみたいに」
「ついた。 じゃんじゃん燃えてるよ!」
 奇妙な高笑いをしたが長続きせず、すぐにシルヴィーは険のある表情に戻った。
「出てくよ。 それだけ言いに来た」
 あわてて、クロはのけぞった体勢になった。
「勝手な真似するない! 俺たちゃ物持ちになったんだぞ! あの大層な酒場がただで転がり込んでくるなんて、刺されるのも悪くないって思えてきたぜ」
「よかったね。 じゃ、さよなら」
「だから待てって! もう左うちわで暮らせるんじゃないか! 酒場のおかみさんなんて、いい響きだろうが」
 シルヴィーはせせら笑い、手にした包みの中から更に小さな包みを出して、粗末なベッドの上に広げてみせた。
 クロは息を呑んだ。
「これは……王様の身上でも盗んだのか?」
「あのバカお嬢様のだよ。 箱ごと持ち出してきてやったさ。 もう使えないんだから構やしない」
 クロは愕然として、口をぱくぱくさせた。
「おま……おまえ! なんて大それたことを!
宝石の山を素早く包み直すと、シルヴィーは眼を不気味に光らせて、思い切り足を引き、深くお辞儀した。
「ごきげんよう、兄ちゃん。 ちっぽけな酒場でせこせこ生きていきな!」
「おい!」
 薄情な笑い声だけを残して、シルヴィーは飛ぶように階段を駆け下りていった。



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