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 素早くベッドを飛び出そうとして、体が重くしびれているのに気付いた。
 水だ! すぐわかった。 寝る前にいつも鉱泉水を一杯飲むことにしている。 その習慣を知っている者が、眠り薬をたらしたのだ。
 幸い、昨夜はそれほど喉が渇かず、一口ぐらいしか飲まなかった。 そのことが、マールを危機から救った。

 なんとかベッドから転がり落ち、マールは床を這って窓までたどりついた。 そして、壁際の小机に置いてある大きな花瓶の取っ手を掴んで、窓にぶつけた。
 けたたましい音を立てて、上等のガラスが粉みじんに割れた。 新しい空気が入ってきて、火は一段と勢いを増し、部屋中が竈〔かまど〕のようにくすぶった。
 黒い煙が満ちてきて咳き込んだが、しびれはほとんど消えた。 マールは素早く大きな穴のあいた窓をまたいで、ベランダから近くの木に飛び移った。
 炎の赤い色が庭を照らし、使用人の住居から人々が飛び出してくるのが見えた。 薄い夜着のまま木の幹をすべり降りてきたマールを、下男のディディエのコートが包んだ。
「ご無事ですか、マール様!」
 金切り声が空気を裂いて、もう一人の小間使いジャンヌマリーが飛びついてきた。
「ええ、怪我はしていないわ」
 火が吹き出している窓を見上げながら、マールは自分でも意外なほど冷静に答えた。

 間もなく、ガウンをひるがえしてエレが現れた。 彼女は使用人を二組に分け、半分をずらっと並ばせて水運びに使い、もう半分は庭の噴水からポンプで水をかけさせ、中と外から消火に努めた。
 そのかいあって、火はマールの寝室とその両側の控えの間を焦がしただけで、辛うじて消し止められた。

 てんやわんやの騒ぎの中に、シルヴィー・メランの姿はなかった。


 その夜、いつも熟睡するセルジュは、珍しく悪い夢にうなされた。
 どんな夢かはっきり覚えてはいないが、全身に冷や汗が吹き出した。 シャツが濡れ、気持ち悪くなったので、彼は早朝に起き出して、裏の井戸の横で上半身裸になり、タオルを手に取った。
 水にひたした布を固く絞って、首筋や背中を拭いていると、目の前にすっと人影が立った。



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