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 セルジュはマールとの約束を守って、クロに居酒屋の話を仄めかしもしなかったらしい。 初めてピエールに恩賞のことを聞かされて、クロは驚きを通り越して腰を抜かした。
「え、ええっ! あの、あの立派な、毎日百人は客の来る燕亭を、このわたしに?」
 ピエールは真面目な表情で念を押した。
「そうだ。 だが条件がある。 一つは、おまえが刺された事件を完全に忘れること。 あれは行きがかりの喧嘩だったことにしろ。
 もう一つは、おまえがおじさんから財産分けしてもらって、燕亭を買い取った形にすることだ」
「おじさん? おじさん……」
 あまりの驚きに頭脳が動かなくなって、クロはあたふたした。
「おじさんなんて、俺にはいないですが」
「いたことにするんだよ」
 ピエールは笑いながら、子供に話してきかせるようにゆっくりと続けた。
「この世にいないおじさんの名前もしっかりと考えておくように。 ボロが出ないように頼むよ。
 そうだ、家族があったら口裏を合わせておいてくれ。 誰かいるか?」
「え? ええ、妹が……」
 うっかりしゃべりそうになったクロを、素早くセルジュが遮った。
「俺から言っておきます。 まだこいつはよく動けないんで」
「そうか、よろしく頼む」
 話の間、マールは口をつぐんで見守っていた。 声から女だと悟られてはまずいし、セルジュをそっと眺めるのに気を取られていて上の空だったせいもあった。
「いい知らせを聞いたから治りが早くなるさ。 一ヶ月したら開業資金と免許状を持ってまた来る。 養生しろよ」
「はい!」
 クロの上ずった声を背後に、マールはピエールと連れ立って部屋を出かかった。
 すると、すがりつくような声が追ってきた。
「あ、そこの若様! あなたは俺の命を助けてくだすった方ですね!」
 やむなく、マールは少しだけベッドのほうへ引き返し、作った声で答えた。
「直ってよかった」
「感謝します。 一生恩に着ます!」
 下げた帽子のつばの下から微笑み返して、マールは急いで外に出た。

 建物を後にして、ごみごみした角を曲がったところで、マールは立ち止まった。
「こっちへまっすぐ行くと兵舎ね。 あなたはそちらへ帰りなさい。 私は一人で戻れるわ」
 ピエールは驚いて強く首を振った。
「いえ! お宅までお送りしますよ」
「大丈夫。 子供じゃないから」
「しかし……」
 適当な性格のジャンと違って、ピエールはゆうずうがきかない。 仕方なく、マールは兄から聞いた切り札を出すことにした。



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