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 セルジュの片頬に微笑が浮かんだ。
「伸び伸びと育った、明るい俺のお姫様」
 そう呟くと、彼はマールの口に、そっと唇を置いた。 その唇はやがて頬をすべり、喉元へと移っていった。 愁いを含んだ声が囁いた。
「お姫様の父君は王様の親戚で、陸軍大臣。 俺の母親は場末の給仕女で、親父は旅の画家。 天と地ほども違う二人が、こうやって中庭で抱き合ってるんだから、この世は不思議だ」
 うっとりと目を閉じながら、マールはそっと尋ねた。
「シルヴィーは恋人?」
 セルジュが苦笑しながら首を横に振るのが感じられた。
「いや。 あいつとクロは俺の従兄妹。 親父が喧嘩で殺され、お袋も病気で死んだ後、銀細工師だった伯父が引き取ってくれて、兄弟のように育った」
 ああ、だから面倒を見る義務があると言われていたのか――恩を忘れないセルジュを、マールはいっそう好ましく思った。
「あなたの絵の才能は、お父さん譲りなのね。 兄のシャルルが嘆いてたわよ。 フィリップ・ド・シャンパーニュに弟子入りさせて、せっかく腕を認められたのに、不意に姿を消して戻ってこないって」
「人に使われるのは苦手だ。 それに、住み込みになったからクロを守れなくて、大怪我をさせてしまったし」
 その深い後悔は、復讐の叶った今でもセルジュの良心を苦しめていた。 歯ぎしりする彼の横顔を見て、マールは素早く考えた。
「でも、絵を描くのは好きでしょう?」
「確かに。 自分だけのために描くなんて贅沢は、なかなかできないが」
「あなたが代筆していた似顔絵は、こわいほどの出来栄えだったと、アンリが言っていたわ。 シャルルはあなたを大画家にしたい。 あなたも思う存分絵が描きたい。 そうでしょう?」
 セルジュの首に両腕を回して、マールは甘く囁きかけた。
「シャルルに頼みましょう。 クロードとシルヴィーはあなたの家族だから、一緒に面倒見てくれって。 資金を出してもらって、兄妹で小さな宿屋か酒場をやればいいのよ。
 そうだ! 燕亭は接収されて、国のものになるって父様が言ってた! きっと安く手に入るわ」
「でも俺は……」
「あなたは兄に約束した。 そうでしょう? シャンパーニュ画伯にも弟子になると誓ったはず。 絵を描くのが嫌いならともかく、好きならどうぞ続けて。 誰にも負けない立派な画家になって!」
 私だってあなたが必要だ。 泥棒稼業に戻して、悲惨な末路をたどらせたくない。 マールは必死だった。

 マールを抱きしめたまま、セルジュは考えに沈んだ。 様々な悩みや、ためらいや、闇社会の義理が心に渦巻いているのだろう。 表情が次々に変わり、苦しげに歪んだ。
 マールは息を詰めて、じっと立っていた。 今、セルジュの人生が決まるところなのだ。 三十分でも一時間でも、黙って待つつもりだった。



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