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「お母様」
 懸命に声を通そうとするマールを見て、エレは扇子を優雅に使いながら近づいてきた。
「どうしたの?」
「あの、胃の調子が悪いので、今夜は何も食べたくないの。 いつもの薬をくれますか?」
「ええ、いいわよ。 こっちへいらっしゃい」
 薬草は、涼しい北側の部屋に置いてある。 娘と並んで廊下を歩きながら、エレは軽い流し目をくれた。
「胃が痛いにしては元気にしゃべりすぎじゃない?」
 母の目は欺けない。 とたんにマールはエレの手を持ち上げるようにして頼みこんだ。
「お願い、お母様。 お母様も恋をしたことがあるでしょう? だからわかってもらえるわね。
 私……私、生まれて初めて告白されたの。 それも、密かに想っていた人に」
「彼に会いたいのね」
 エレは口を結んで考え込んだ。 その難しい横顔に、マールは思いの丈をぶつけた。
「彼には才能も機転もある。 それに仲間や私に対する深い思いやりも。 運が巡ってくれば必ず出世する人よ」
 エレは激しくまばたきした。
「もし巡ってこなかったら?」
 マールはためらわずに答えた。
「それでも構わない。 私は彼が好きなの。 彼の条件が好きなんじゃないの」
 昔の苦くわびしい恋が、エレの脳裏をかすめ過ぎた。 生まれ変わっても自分は同じ恋を選ぶだろうか……
 先の世を考えたって時間の無駄。 あるかどうかさえわからないのに。 星の瞬きのような短い人生で、愛する人に愛されただけで奇跡なんだ。
 そう割り切って、エレの顔に明るさが戻った。 そして、からかうように娘の顔を覗きこんだ。
「お相手は、もしかすると汚れたセーヌ川に勇ましく飛び込んだ、曲芸師のように身の軽い、あの若い人?」
 マールは唾を飲み、小さく頷いた。
「わかった?」
「彼を見る態度で、なんとなく。 母親だから」
「彼は素敵でしょう? ね? お母様もそう思うわよね?」
 すがりつくように、マールが尋ねた。 ちょっと考えて、エレは頷いた。
「ええ、私の好みとは違うけど」


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