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 雑談しながら待っていた甲斐があった。 やがてマールは、裏口から桶を下げて出てきたセルジュの姿を発見した。
 箒をかかえた若い女としゃべっているアシルを見て、セルジュは額に皺を寄せた。
「ごきげんだな、アシル」
「よう、セルジュ」
 脚立の上でわざとらしく枝切り挟みを動かしながら、アシルは軽く応じた。
「隣りに新しく入った子だと。 ええと、名前は何だっけ?」
 考えていなかったマールは、とっさに思いついた名前を言った。
「シモーヌよ」
 そして、思い切り無邪気に微笑んでみせた。 マールには正体がばれないという自信があった。 隣りといってもコンデ家とカルナヴォン家はどちらも広く、しかもあまり仲がよくないため付き合いがない。 おまけに貴族の女性は輿か馬車で出かけるのが常なので、近所にも顔を知られていないはずだった。
 セルジュはじろっと『シモーヌ』に目をくれた。 そして、そっけなく言った。
「仕事をさぼって遊んでると、女中頭のアンヌおばさんにその箒で尻を叩かれるぞ」
 マールはおびえたふりをした。
「え? アンヌさんってそんなに怖いの?」
 手桶の水を庭に捨てながら、セルジュは答えた。
「怠け者にはな。 ちゃんとやれば意地悪はしないさ」
「私ね、田舎から出てきたばかりなの」
 調子に乗って、マールは声を震わせた。
「右も左もわかんないの。 あんたは親切そうだわ。 いろいろ教えてくれる?」
 桶を壁の横に置くと、セルジュは向き直って、改まった口調で言った。
「男を見かけで決めるのはよしな。 ちょっと優しそうな顔してるからってついていくと、ひどい目に遭うかもしれないよ」
 この人、女たらしじゃないわ――まじめに忠告してくれたセルジュに、マールはいっそう好感を持った。
「うん、わかった。 言われたことをちゃんとやるわ。 それじゃね、アシルさん、それにセルジュさんも」
「またな」
 生垣の上で、アシルの鋏が輪を描いて別れを告げた。


 小さな冒険を終えて裏口から戻ったマールは、空き部屋で素早く化粧を落とし、服を着替えて、何食わぬ顔で図書室に行った。 今日は詩の勉強で、ユーグ・ダルジーという当代有名な詩人が個人授業に来てくれる日だったのだ。
 マールは詩が好きだった。 響きが音楽のようで耳に快い。 サマランやコルネリの詩をいくつか暗誦して口ずさんだりしていた。
 だがその日は、授業に身が入らなかった。 意識を集中しようとしても、心が妖精のようにあちこちに飛び移って、なかなか戻ってこない。 そのうち無意識に、手元の紙に落書きを始めていた。


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