表紙
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 若い画家はためらった。
「ええと、今は絵筆もなんにも持ってないもんで」
「じゃ、取ってこいよ。 まだしばらくここで飲んでるから」
「……はい」
 見るからに気が進まない様子で、画家はニ、三歩後ずさりし、くるりと向きを変えて、痛む足をできるだけ急がせて姿を消した。

 すっとアンリが立ち上がったので、フランソワは驚いた。
「どうした? まだ酒は来ないぞ」
「ちょっと用事が。 すぐ戻ってきます。 席を取っておいてください」
「おい!」
 父を後に残して、アンリはごみごみした道に出ていき、画家を探した。 見つけたら知らせてくれという弟の言葉を思い出したのだ。
 その視線の先に、足を痛めているにしては凄い速さで横道へ入っていく男の後ろ姿が捉えられた。
 下町の裏通りは、警察官でもうっかり入ると危険だ。 そこは、世の中の底辺を這いずり回る物乞いやスリ、かっぱらい、果ては強盗や人殺しの世界で、表社会とは別のルールで動いていた。
 念のため腰の剣を確かめた後、アンリは悪名高いその『故売屋通り』へ足を踏み入れた。 するとたちまち、数人の物乞いに取り囲まれた。
「お兄さん、いい服着てるね。 ちょっとばかりおいら達に恵んでくれねえか?」
 片目に眼帯をした男がすり寄ってきた。 こんなとき金を見せるとかえって危険だ。 アンリは手をひらひらさせて嘆いてみせた。
「見てわかるだろ? 俺は兵隊なんだ。 ここに来る前に、とっくに給金なんか使い果たしてる。
 だからルルに元手を借りて、一勝負しようと思ってさ。 そうだ、ルル知らないか? 茶色の髪で眼がまん丸な、十九ぐらいの子なんだが」
 あてずっぽうな名前を言ったのだが、ルルという娼婦は多いので、たいていの場合、近所に一人ぐらいはいるものだ。 思ったとおり、物乞いは鼻を鳴らし、無愛想に言い捨てた。
「ルルなんざ、とっくに男つかまえに行ってるぜ。 間抜け!」
「そんなヤツ放っとけ。 オケラに用はねえ」
 オケラ? 育ちのいいアンリにはわからない隠語だった。 後で下男のショーブレにでも訊いてみようと思いながら、彼の眼は、困った様子で井戸端に座り込んだ画家の姿をがっちり掴んでいた。

 さりげなく近寄ろうとしたとき、小路の奥からもう一人、男が出てきた。 すらっとした、身のこなしのきれいな若い男で、しょげている画家につまずきそうになり、小声で悪態をついた。
「くそっ、悪魔にでも食われちまえ」
 とたんに画家は、若い男にすがりついた。
「待ってたんだよ、セルジュ! 俺さ、まずいことになっちゃった」
 セルジュと呼ばれた若者は、長い前髪を振り払って画家の前にかがみこんだ。
「なんだ、クロか。 どうしたんだい、しけた面して」
「酒場だよ。 燕亭。 あそこの客が、俺に向かって、自分の顔描いてくれって」
 セルジュは頭を振り、低く笑い出した。
「そりゃあ厄介だな。 おまえには、人の顔どころか石ころだって描けないからな」
 酔ったふりをして壁にもたれていたアンリは、この妙な言葉に驚いて、手に持ってあおいでいた帽子を地面に落としてしまった。


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