表紙
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 再び裏庭を歩きながら、マールはにやにやしていた。 何か得をした気分だ。 喧嘩は面白かったし、応援した方が勝ったし、おまけに……
「ふうん、あれが泥棒か。 とてもそうは見えないな。 兄さんたちより細いし、顔だって、あっちのほうが貴族みたいに上品だった」
 くすっと笑って、マールは屋敷を回り、母屋の裏に消えていった。


 その夜、返書を持ち帰ってきたアンリの案内で、フランソワは地味な服装をして、下町へ行った。 二人の目当ては、もちろんあの×をつけた路地の家だった。
 どうもそこは、居酒屋の酒蔵らしかった。 道の奥に樽が転がっているし、扉の横にも置いてある。 立派な服装をした旅の商人が入るような建物ではない。 やはり曰くありげだ、とフランソワは納得した。

 長居をすると怪しまれるので、二人は場所だけ確かめて、さっさと表通りに戻った。 父子で歩くのは久しぶりで、なんとなく妙な気分だった。
「そう言えば、父様と出かけることなんか、最近なかったですね。 どうです? 情報集めを兼ねて一杯やりますか」
 渋面を作って、フランソワはためらった。
「遊び人のおまえとか? エレが何と言うか」
 アンリは苦笑した。
「わたしだってコンデ家の息子ですよ。 母様がどう思っているか知りませんが」
 とたんにフランソワはむきになった。
「当然だ。 おまえはれっきとしたわたしの長男だ。 シャルルだって認めている。 何の問題もない」
 頑固だが筋の通った父の顔を見ているうちに、アンリは我にもなく感動しそうになった。 彼はフランソワの実子ではない。 両親が別居していた間にできてしまったのだが、フランソワは生まれた赤ん坊をためらいなく認知し、嫡男として他の子と分け隔てなく扱った。 それはもう見事なほど公平に。
 照れかくしに、アンリはふざけた調子でまた誘った。
「浮気しろなんて言ってませんよ。 ちょっと飲むだけ。 さあ、行きましょう!」

 同じ店にちょくちょく出入りすると目立つと思い、アンリはこの前とは違う酒場に父を連れていった。 フランソワはそれほど酒好きではなく、こういう場所には滅多に来ないので、最初は居心地が悪そうだった。
「最近の飲み屋はしゃれているな。 壁に女の絵を飾るなどと」
 そう言えば――アンリは目を細めて、入口近くの壁にかかった、裸同然のダンサーの絵を眺めた。 これには色がついている。 ただのデッサンではないが、前の酒場にずらりと並んでいたスケッチ画と、確かに同じタッチだった。
 貧乏画家は少し金回りがよくなって、絵の具を手に入れたのかな、とアンリが思っていると、右足を引きずって、若い男が裏口から入ってくるのが見えた。
 ひどく顔色の悪い男だった。 栄養が足りないのだろう。 彼は、脇にかかえている四角い板を主人に見せ、小さな、おそらく金の入った袋を受け取っていた。
 それから彼は入口に向かい、ダンサーの絵と対になる位置に板をかけた。 それは酒の神バッカスと、周りで踊る美女たちの絵だった。
「うまいもんだ」
 感心して、アンリはしばらくその絵に見とれた。 シャルルほど審美眼はないが、それでも絵のうまい下手ぐらいはわかる。 この画家は、貧相で見栄えしないのに豪華な絵を描くのが得意らしかった。
 貧乏画家がのろのろと酒場を出ようとしていると、酔客の一人が声をかけた。
「いい絵だな。 気に入った。 ついでにもうちょっと稼がないか? ここへ来て、俺の顔を描いてくれ。 五十フランやるぞ」


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