表紙
表紙目次前頁次頁文頭





−9−

 裏庭は静かで、ゆったりした風が吹き抜けていた。 汗ばんだ額に心地よくそよ風を受けながら、マールは着替えのために母屋を目指して歩いていた。
 その途中で、騒がしい人声が響いてきた。 マールは立ち止まって耳を澄ませた。
 声はどうやら、生垣の向こうにある隣りの館から聞こえてくるらしい。 好奇心を起こしたマールは、そっと近寄って、つげの枝を指で押し開け、片目で覗いた。

 そこには広々とした芝生が広がり、明らかに召使とわかる男女が十人ぐらい群がっていた。 その中央には二人の男が向き合い、腕まくりして、今にも殴りあいに入ろうと体勢を固めていた。
「行け! セルジュ! 木っ端みじんにやっつけろ!」
「ぶっ倒せ、フロロ! 歯を全部叩き折れ!」
 ぶっそうな声援が双方に飛ぶ中で、二人の男は用心深く回りこみながら、軽いジャブを繰り出して様子を見ていた。
 マールに近い側にいるのは、毛むくじゃらの大男だった。 まるで熊みたいだ、とマールは思い、それに比べて斜め前に見える青年はなんてきゃしゃなんだろうと心を痛めた。
 彼はセルジュという名前らしかった。 栗色のカールした髪が、軽いフットワークで前後に動くたびに額で揺れ、いきいきした緑色の眼に入りそうになる。 そのたびにじれったそうに首を振って払いのける仕草が、どこか子供っぽくて初々しかった。
 三度目に彼が髪を跳ね上げたとき、隙を狙って熊男のフロロが右パンチを浴びせた。 セルジュは間一髪でよけ、口笛を吹くように唇をすぼめるなり、両腕を稲妻のようなスピードで繰り出して、フロロの広い顔の左右に連打をお見舞いした。
 フロロは一歩下がった。 だがすぐに立ち直り、頬を真っ赤にして反撃に出た。 彼のアッパーはなかなか強烈で、まともにくらったらおそらく一発で誰でも気絶してしまいそうだった。
 垣根の手前で、マールも自然に拳を作り、無意識に青年と動きを合わせて茂みを殴っていた。
「そうよ、そう。 落ち着いて。 あ、また右から来た! 頭を下げて! そうよ、上出来!」
 隣りの見物人たちも、多くはセルジュを応援しているようだった。 それでフロロはむきになり、一撃で若造を片づけてしまおうと、いきなり体を沈めてセルジュの腹部に拳を叩きこんだ。
 セルジュはとっさに腰を引き、大きな鳥のように飛びのいた。 実際、長くて柔らかな動きをする両腕が上に上がって、細い翼そっくりに見えた。
 攻撃を完全には避けきれなかったのだろう。 わずかにしかめた顔が痛々しかったが、セルジュはただ攻撃から退いただけでなく、次の手をもう考えていた。
 拳を突き出したために低くなったフロロの顎を、横からセルジュが殴り飛ばした。 そしてバランスが取れなくなってよろめいたところをすかさず、顔の真ん中めがけて一発。
 ぐっという鈍い音を立てて、フロロは膝をついた。 顔を押えた指の間から、鼻血が筋を引いて草の上に落ちた。
 相手が戦意を失ったのを見てとって、セルジュはまくり上げていたシャツの袖をおろし、何事もなかったように屋敷へ向かって歩き出した。 その背中に、見物人の一人が声をかけた。
「でかした! 見かけによらず、強いじゃないか!」
 振り向きもせずに、セルジュは鐘のように澄んだ声で答えた。
「ガキの頃から喧嘩は場数を踏んでるからな」

 茂みから覗いていたマールの眼が、ゆっくりと大きくなっていった。 あれ? この声、聞き覚えがある。 聖歌隊に入ればいいのに、と思うほどよく通る、耳障りのいいこの声は……
 やがて気付いて、マールは思わず天を仰いだ。 なんとびっくりすることに、セルジュと呼ばれているあの身軽な青年は、昨夜の泥棒、『早業のジャック』なのだった。



表紙目次前頁次頁文頭
背景:CoolMoon
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送