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 アンリの向かった先はヴェルサイユだった。 司令官のシャルドンヌ将軍にこっそり面会して手紙を渡した後、翌日返書を持って帰る約束をして、アンリは再び夜の戸外へ出た。

 もう明け方に近く、空には曙の光が広がり始めていた。 したがって、広大なヴェルサイユ宮殿の裏庭を猫のように忍び足で動いていても、迷う心配はなかった。
 慎重に窓を数えて歩を進めていたアンリが立ち止まった。 そして、指先で窓枠を叩いた。
 三度目に、かすかな音を立てて窓が引き開けられ、中から茶色の頭が覗いた。
「まあ、アンリ様! こんな早くに」
「いい子だ、イヴェット、奥方はまだおやすみ?」
「当たり前でしょう? あ、そこから入らないでください!」
 身軽に体を引き上げながら、アンリはにやっと笑った。
「それならなおさら好都合。 面倒見のいい乳母のように、マダム・ドーヴレに添い寝して差し上げよう。 さあ、おどき、美しい小間使いちゃん」


 次第に日が昇り、昼近くになった。 パリのコンデ邸では、首にタオルをかけて盛んに剣の鍛錬をしていたフランソワが、暑くなって上着を脱ぎ捨て、広い運動室の端に放ったところだった。
 相手をしているのは、ほっそりした若者だった。 体は大きいとは言えないが、なかなかの使い手で、剣を巧みに操ってはフランソワの隙を狙い、剣先を丸めていなかったら軽い傷を負わせたかもしれないほど鋭く攻撃していた。
 練習室にいるのは、多彩な業を繰り出して闘っている二人と、飲み物を用意して控えている従者だけで、聞こえるのは激しい息遣いと火花を散らすような金属音のみだった。
 若者が小刻みに足を進めて、フランソワの袖口を狙った。 フランソワはとっさに切り返し、剣をしならせて相手の剣の根元を叩いた。 そして、相手があわてて、落ちかけた剣を持ち上げようとする力を利用してはね上げ、手から飛び出したところを手際よく受けとめた。
 剣を奪われた若者は、足をそろえて立って一礼した。
「参りました」
 剣をニ本まとめて従者に渡すと、フランソワはタオルで顔を拭いた。
「上達したな。 あとニ、三年したら、わたしと互角になるだろう」
「それなら嬉しいけど」
 不意にくだけた口調になって、若者はフランソワに飛びついて頬にキスした。 その横顔は男ではなく、まさしく末っ子のマールのものだった。
 娘の頬を軽くつまむと、フランソワは苦笑した。
「兄より、少なくともシャルルより剣がうまいとは、女だてらに困ったものだ」
「女だって身を守る必要があるわ」
 父の持つタオルの隅で自分も顔を拭いながら、マールはむきになって主張した。
「母様だって、腕が立つから今まで生き延びてこられたんだって、いつも言ってるわ」
「確かにそうかもしれないが」
 後はもぐもぐ言ってごまかすと、フランソワは従者からワインの盃を受け取ってぐっと飲み干し、奥へ行こうとした。
 そのとき、庭のほうから足音がして、アンリが入ってきた。 その姿を見たとたん、フランソワは真顔になって、別人のような口調でマールに命じた。
「あっちへ行っていなさい。 わたしはアンリと大事な話がある」
 ちょっと不満そうに、それでも素直に、マールは兄に微笑んでみせてから庭に出た。



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