表紙
・・・貿易風・・・ 74

 七ヶ月が過ぎ去ったとは思えなかった。 大通りは相変わらず人と馬車と人力車、それに道端から張り出した出店で、息が詰まるほど立てこんでいた。 静かで眠ったようなイギリスの町とは、何という違いだろう。 地球を半周して、私はようやく戻ってきたんだ、と、セーラはつくづく実感した。
 吹きさらしの二階席から、セーラはあちこちを指差してシドに教えた。
「あの銀細工の店は、クマールおじさんがやっているの。 親切な人で、母がなかなか部屋を見つけられないでいたときに保証人になってくれたのよ」
「あそこは香辛料の店。 何ヶ月か売り子をしていたことがあるわ。 店主のグリンダおばさんが亡くなって代替わりして、辞めることになったんだけど」
 シドはうなずきながら、好奇心に満ちた眼で通りを眺めた。
「いつ来ても、アジアの活気には感心するよ。 人間の数の多さにも」

 いつもの停留所で乗り合い馬車を降りるとき、セーラは妙に静かになっていた。
 カーキ色のズボンに茶の上着というラフな姿ながら、いかにも育ちのいい英国人と見てとれるシドが道に降り立つと、子供や物乞いがワッと群がって、コインをせがんだ。
 靴を磨こうとか、荷物を持とうとか言い出す少年もいて、セーラは懸命にシドを救い出そうとしたが、本人は平気な顔をしてズボンのポケットを引っ張り出して裏返し、何も入っていないところを見せてから肩をすくめた。
 なーんだ、という顔になって、小さな集まりはばらばらと解散した。
「慣れてるのね」
 セーラが感心すると、シドは笑った。
「うっかり金を見せると、倍も三倍も人が寄ってくるからね。 それに、同じ貧乏人だと思わせたほうが警戒されないし」
 確かにシドは、植民地に来て現地人に威張り散らすタイプの白人ではなかった。 セーラはますます彼が好ましく思え、そっと肘に手をかけて寄り添った。
「バッグは自分で持つわ」
「こんなの軽いよ」
「でもあなたの鞄があるんだし。 ね?」
 腕を組み、仲よく一つずつ鞄を下げて、ふたりは小路を曲がった。

 下宿のドアはますます痛んで、ペンキがはげかかっていた。 ポシェットから鍵を出したものの、胸が不意に大きな動悸を打ち始めて、セーラはなかなか鍵穴に入れることができなかった。
 代わりにシドが手を伸ばして、鍵を回してくれた。 母はまだ帰っていないらしい。 中は薄暗く、しんとしていた。


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