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・・・貿易風・・・ 1

 金の縁取りのついた絹のサリーを着て、二重に金の腕輪をはめるのが、母の夢だった。
 父もその夢を叶えたかったのだと、セーラは思う。 だからマドラス郊外のダイヤ鉱山で現場監督をしていたとき、つい原石をポケットに落としこんでしまったのだ。
 しばらくは発覚しなかった。 セーラの家では雇い人が一人増え、紅茶がたっぷり飲めるようになった。 父は新しい馬車を買う計画を立て始めた。
 だが、うまい話はいつまでも続かない。 現場の鉱夫がもらした噂が広まり、ある日、採掘作業がいつも通り終了した直後、セーラの父スティーヴ・ヒューイットは本部に呼び出された。
 そのまま、父は戻ってこなかった。 夜になって警察に留置されていると連絡が入り、翌週には裁判が開かれて、業務上横領で有罪が決まった。

 それなりの広さがあった屋敷は没収された。 もちろん会社は首になり、家族には何も残されなかった。 セーラは十八歳になったばかりで、現地人の母と二人きり、インド大陸という灼熱の大地に放り出された。

 母のジャナは、娘を守るためにできるだけのことをした。 市場で毎日足を棒にして野菜を売り、それでも足りない生活費は、あんなに大切にしていた腕輪を一つずつ質に入れて補った。
 もちろんセーラも手をこまねいていたわけではない。 小さな貿易商社の事務員として雇われて、懸命にタイプを打ち、書類を整え、船との連絡に明け暮れた。
 しかし、こんなに働いても、給料は雀の涙ほどしか貰えなかった。 おまけに中年男の社長が次第に接近してきて、愛人になれば給料を倍にしてやると仄めかす有様だ。 ここにはもう長くは勤められないと、セーラは覚悟を決めていた。

 いろいろ悩みがあったから、乗り合い馬車で夕暮れの道を戻るとき、気が散っていた。 箱の中は暑くてたまらないので、できるだけ二階立て馬車の屋根席に乗るようにしている。 日傘を肩の上で回しながらぼんやりと、見慣れた景色が移り変わっていくのを眺めていると、不意に声をかけられた。
「ここ、いいですか?」

 レストランではあるまいし、通勤用の馬車でこんなことを訊かれたのは初めてだった。 重い瞼をあげたセーラは、麻の服をきちんとまとい、たっぷりと頬髯を生やした紳士からその問いが発せられたことを知った。
 少し脇に詰めて、セーラはおとなしく言った。
「どうぞ」
「それじゃ」
 フロックの裾を持ち上げて座ると、男はごそごそと懐から手帳を取り出した。 そして、もう一つセーラに尋ねた。
「ところでお嬢さん、二百ポンド欲しくありませんか?」


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