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・・・貿易風・・・ 2

 十ポンドで上等な服が買えた時代だ。 二百ポンドというのは、結構な大金だった。
 セーラは日傘を畳み、じろっと男をにらみつけると、まだ降車駅ではないが、さっさと下に行こうとした。
 あわてた顎鬚男は、自分も立ち上がりながら懐に手を入れ、名刺を取り出した。
「怪しい者じゃありません。 ほら、ここに書いてあるでしょう? 仕事は弁護士。 カルカッタで事務専門の弁護士事務所をやってるんです」
 弁護士! 父が逮捕されたとき、なけなしの貯金をはたいて必死で依頼したのに、おざなりの弁護しかしてくれなかった刑事弁護士の顔が頭に浮かんで、セーラはなおさらかっとなった。
「弁護士って口先だけでぺらぺらと世の中を渡っていく人でしょう? 私の給料は一週間で四ポンド十シリングですよ。 二百ポンドなんてそんな大金が、雨みたいにあっさりと空から落ちてくるはずがないことぐらい、わかってます」
「確かに」
 走ったわけでもないのに、弁護士、名刺によるとサイラス・メイヤー氏は息を切らしていた。
「これは、あなたでないとできない仕事なんですよ。 この写真を見てください」
 名刺の下から手品のように、重なっていた写真が表に出てきた。 大きな夢見るような瞳をわずかに細めて、セーラはその写真をしぶしぶ眺めた。
「きれいな人ですね」
「ええ、そうです。 それに、あなたにとてもよく似ている」
 私に? セーラはもう一度見直した。 確かに黒い髪をしているようだが、顔立ちはそれほどぴんと来なかった。
「顔の輪郭は同じようですが、目や鼻の形は」
「そっくりですよ」
 メイヤーは頑固に言い張り、話の続きに移った。
「この人の父親は上流家庭の出身でしたが、混血の女性と恋に落ち、親の反対を押し切ってインドに駆け落ちしました。 でも去年のコレラ騒ぎで……知ってますね? ダッカでは野火のように広がったんです。 たくさんの人が死にました。 このお嬢さんと両親も」
 確かに去年の夏、インドのあちこちでコレラが大流行し、たくさんの死人を焼く煙が町に立ちこめて交通事故を起こすという騒ぎになったことがあった。
 そのとき、乗り合い馬車が止まろうとしてぐらりと揺れたので、二人はバランスを失い、またベンチによろけこんだ。
「一方、息子を勘当してインドに追いやった本家では、大奥さんが心臓病で、息子一家が全滅したことを話すと体にさわるというので、秘密にされていたんです。
 その大奥さんがいよいよ弱ってきて、まだ立って動けるうちに孫娘に会いたいと言い出したんだそうです。 頑固な人で、息子とその外国人の妻の顔は見たくないが、血を引いた孫には一目会っておきたくなったんでしょう」
 そこで弁護士は声をひそめた。
「大奥さんの友人がヨークにいたときにわたしと知り合いでして、インドまで手紙で依頼してきたんです。 この写真と似た女性を探して、お嬢さんの代役としてイギリスに連れてきてくれと」




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