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・・・貿易風・・・ 3

 代役? それもわざわざインドからイギリスまで地球を半周して?
 ちょうど下宿のあるごちゃごちゃした通りが見えてきたので、セーラはこれ幸いと席を立った。
「ばかばかしい。 そんな事情なら、芝居のうまい女優さんか何かをイギリスで雇って、その大奥さんに会わせればいいじゃありませんか」
「そんなんじゃすぐばれてしまいますよ。 ケンプ家の人たちは皆さん剃刀のように頭が鋭いんです。 インドで実際に暮らしていて、客船でイギリスの港に上陸した、限りなく本物に近い令嬢でないと」
 二人は小声で口争いしながら、もつれるように乗り合い馬車を降りた。 たちまちカレーの香りと人いきれの入り混じった、むっとする空気が二人を包んだ。
 さっさと歩くセーラの横にぴったり寄り添って、弁護士は懸命に説得を続けた。
「何も悪いことはないんです。 ただ気の毒な老婦人を慰めるだけなんですから、人助けでしょう?
 大奥さんはもう長い命じゃありません。 役目がすんだら、後見人が改めてあなたに謝礼を払うでしょう。 金持ちですからね。
 したがって、二百ポンドはいわば前金にあたるわけです。 旅費はもちろんこちらが出しますし、その他に支度金もつけましょう。 いろいろ準備があるでしょうから」

 ケンプ家。 具体的な名前が出てきたことで、セーラはいくらか迷い始めた。 今、彼女の生活は大変だった。 将来はお先真っ暗といってもいい状態だ。 母には親族がいないし、父の親戚は事件を起こしたとたんに背を向けてしまった。
 二百ポンドあれば、母一人ならこの物価の安いインドで三年は暮らしていける。 現在の仕事を半分に減らして楽をさせてやりたい。 二年後には父が刑務所を出てくる。 それまでなんとか乗り切れれば……
 出稼ぎに行く娘は多いんだ、と、セーラは自分の心に言い聞かせた。 事務員にしろ下働きにしろ、女性には危険はつきものだ。 これだけ前金をもらえるのは、逆に話が真実だという証拠になるかもしれない。 若い娘を騙して売り飛ばすなら、こんな込み入った話で説得するより、さらってしまったほうが早いのだから。
 疲れきった母が待つはずの、壁にひびの入った煉瓦作りの三階建てにたどり着く寸前に、セーラは足を止めた。 あまり突然で、メイヤー弁護士は危うく彼女の踵につまずくところだった。
 セーラは振り返った。 決心をつけたものの、怖さが先に立って、顎が細かく震えていた。
「あの」
「はい?」
「もっと詳しく聞かせてください」
 メイヤーの顔に、形容しがたいほどほっとした表情が浮かんだ。
「そうですよ。 それこそ賢い決断だ! さあ、こっちへ。 あそこに見える喫茶店でお話しましょう!」



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