表紙
・・・貿易風・・・ 73

 船の横には、リネンのシャツに軽い上着を羽織ったヒューが立っていた。 そして、馬車から降りてきた二人に、笑顔で声をかけた。
「あと三十分で出航だそうだ。 君たちが間に合わなかったら、船に少し待ってもらおうと思ってここにいたんだが」
「ありがとう。 相変わらず気配りがいいな」
 そう言い残して、シドは乗り換えの手続きのため係を探しに行った。
 セーラは、雑然とした午後の港を見回した。 これから何が起きるか予想がつかず、不安と好奇心で気もそぞろだった行きの旅。 あの緊張感を思い出すと、今の境遇が夢としか感じられなかった。
 手に何かが触れた。 目を向けると、白に赤い縁取りの花を何輪か束ねた、かわいらしい花束がそこにあった。
「砂漠のバラ、という名前だそうです。 年中暑い国だから、花もイギリスとは違って」
 感激して、セーラはその小さな花束を受け取った。
「ありがとう。 私のために?」
「もちろん」
 ヒューは微笑した。
「シドは頼もしい男です。 兄を失った後、母と僕の支えになってくれました。 新聞社でも人望があったし、どこに住んでもいつの間にか地区の役員に選ばれるといった具合で。
 でも、強いからこそ孤独になることもある。 あなたという人ができて、彼には本当によかったと思います」
 あなただって強い、とセーラは思った。 シドが樫の木の剛直なら、ヒューは白樺のようなしなやかさ、順応性を持っていた。 セーラはシドを愛していたが、ヒューの人柄も尊敬していた。
 セーラは手をさし伸ばして、ヒューの手をぎゅっと握った。
「お世話になりました。 ご健康と幸福を祈ります」
「あなたも幸せになってください。 母と僕、そしてたぶん兄のダグラスも、そう願っていますよ」
 握手だけでは足りなくなって、セーラは彼に抱きついた。
「さようなら」
「また逢いましょう」
 優しい声が返ってきた。

--*--*--*--*--*--*--*--

 春の初め、マドラスの駅に降り立ったとき、懐かしい町はたそがれて、真紅の夕陽が空を一面に染めていた。
「あれ、あの乗り合い馬車で事務所に通ってたのよ」
 セーラがはしゃいで指差すと、シドがにやっと笑って答えた。
「その会社に行って、上司のなんとかいう奴に一発食らわすか」
「もう終わったことよ。 それに、職場が嫌だったからメイヤーさんの誘いに乗ったわけだし。 ある意味、恩人かも」
「そうだな」
 旅なれていて、船と列車を乗り継いで灼熱の大陸を横切っても平気な顔をしているシドは、いたずらっぽくセーラの腕を取った。
「あの馬車で、君の家に行こうか」
「そうね! そうしましょう」
 まだ金持ちになった実感のないセーラは、馬車をわざわざ雇わずに行くという経費節約に目を輝かせた。


表紙 目次文頭前頁次頁
背景:b-cures
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送