表紙
・・・貿易風・・・ 71

 入ってきたのがヒューだと思い込んで、いそいそと動いていたセーラの足が、がくんと止まった。 眼が飛び出しそうになった。
 近づいてきた男性は立ち止まらなかった。 それどころか、セーラを見つけて一段と速度を速めた。
 一方、セーラは肩をすぼめ、途方に暮れた表情で、みるみる大きくなってくる男の姿を凝視した。 そして、彼が一定の距離を越えたとたん、後ずさりした。
 男は乞うように片手を伸ばし、低く呼んだ。
「セーラ」
 とたんにセーラは、追いつめられたウサギのように飛び上がって、庭に逃げ出した。

 噴水を回り、椰子の列を縫って、休憩用のバンガローに逃げ込もうとしたが、背後の足音はみるみる近づいてきた。 セーラは泣きそうになって、助けを求めるように首を回した。
 その直後、がくんと抱き止められた。

 全身を固くしているセーラの耳に、荒い息で途切れた声が降ってきた。
「捕まえた。 放さないよ、今度こそ!」
「読んだでしょう?」
 なんて頼りない響きなんだろう。 自分の声とは思えなかった。
「父が何をして、今どこにいるか、書いたはずよ」
「君はいい子だ」
 不思議な返事が返ってきた。 腕がますます強くセーラを抱いた。
「飾らずに、すべて事実を手紙に書いた。 あれを読んですぐに、マルセイユまでの快速船はないかと探し回ったんだ。 間に合わないとわかって、今度はスエズ行きを探して……ここで追いつけなかったらすぐに、次の寄港地を問い合わせるつもりだった」
 追いかけて、追いついて、こんな私を引きとめようとして……遂にセーラの眼に大粒の涙が溢れた。
「私にそんな価値がある? 名前をかたって、お屋敷のみんなを騙した女よ」
「君はジェニファーさんの人生最後の一ヶ月をあんなに明るいものにして、おまけにヒューの命を救った」
 かすかな笑い声が響いた。
「あれは、すごく妬けた。 君がヒューを好きなんだと思って、一晩眠れなかった」
 驚いたあまり、セーラは本音を口走った。
「いいえ、そうじゃゃないの! 人殺しの共犯にされたら二度と故郷へ帰れないと思って、夢中で」
 一段と強く引き寄せられたので、帽子が斜めになって頭から外れた。 ゆるやかにまとめられた黒髪に、シドは眼を閉じて顔を埋めた。
 火のような息が囁いた。
「生まれて初めて、自分よりも大切なものが見つかった」


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