表紙
・・・貿易風・・・ 70

 グレイシーガル号は、その名の通り、横腹をすっきりとした灰色に塗った新型船だった。
「行きに乗ったウェスタンスター号とは航路が違います。 着くのが少し早くなるそうですよ」
 セーラはほっとする気持ちで、巨大な船体を港から見上げた。
「ヒューさんはローデシアで降りてくださいね。 私はもう旅に慣れましたから、一人で帰れます」
 ヒューは微笑したが、言葉は返さなかった。 初めに決めたとおり、マドラスまできちんと送り届ける気らしい。
「じゃ、そろそろ乗りましょうか」
「はい」
 タラップを伝って甲板に上がると、海風が強く吹きつけてきた。 様々な荷物が船倉に運び入れられるのを眺めながら、セーラは考えた。
――これで終わりだ。 もうじきあの人との間には、何千マイルもの海が横たわることになるんだわ――
 寂しさが胸を吹き抜けたが、どこかほっとする気持ちもあった。 これで、今度こそ、諦めがつく。
 やがて霧笛が鳴り、船はしずしずと港を出ていった。


 マルセイユを経由して、グレイシーガル号は地中海を渡り、スエズに到着した。 再び運河通過の手続が待っていて、乗客たちはひとまず下船した。
 相変わらずの暑さだった。 ただ、湿気は少ないので、日陰に入ると随分しのぎやすくなった。
 行きではトロイがいてゆっくり見ることのできなかった博物館を、セーラはもう一度落ち着いて見回りたかった。 そう話すと、ヒューが人力車を呼んで乗せてくれた。
「僕は寄るところがあるから、ニ時間ほどしたら迎えに行きますよ」
 いつものように、ヒューはさりげなく親切だった。

 石造りの博物館は静かで、ひんやりとしていた。 昼下がりの散策にはぴったりだ。 ガラスケースに収められた豪華な首飾りや王の杖、華やかな螺鈿の箱などに目を奪われて、セーラは縦長の陳列室をさまよい続けた。
 小一時間は過ぎ、さすがに足が疲れてきた。 セーラはお土産用の絵葉書を買った後、中庭に出て休むことにした。
 噴水の前に大理石のベンチが向かい合って二台置いてあった。 その一つに腰をおろして、セーラは小さな虹を作って噴き上がる噴水をぼうっとした眼差しで眺めた。
 手紙は無事にシドの元へ届いただろうか。 封を切って読んだとき、彼はどんな気持ちになっただろう。 それとも、読まずに捨ててしまっただろうか……
 急に呼吸が苦しくなって、セーラは胸を押えて立ち上がった。 そうだ、その可能性を今までまったく考えなかった。 シドに誤解され、嫌われたまま月日が過ぎていくのを想像するのは、耐え難いほど辛かった。
「ヒューさんに本当のことを話そう」
 無意識に口走ると、セーラは手提げを握りしめて足を踏み出した。
 その目に、丁度博物館の玄関から入ってくる男性の姿が小さく映った。 セーラはほっとして、急いで建物の中に戻っていった。


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