表紙
・・・貿易風・・・ 69

 翌日の午前中に、セーラはヒューと連れ立って買い物に出かけた。
 石造りの橋を渡ってアサートンヒルへ入ると、セーラはすぐ目をこらして、どこに郵便局があるか見つけておいた。 そして、ヒューが銀行へ行っている間に、切手を買って封筒に張り、投函した。 一通はインドの母に、そしてもう一通は、その朝早くエイダに尋ねて知ったアトウッド家の住所に。

 ヒューが手続を終えて戻ってきたとき、セーラは小間物屋で暖かそうな裏起毛の革手袋と細かいチェックのマフラー、それに雪だるまをかたどった香料入れを買って、大事そうに抱え込んでいた。
「この雪だるま、母へのお土産です。 雪を見たことのない人だから、きっと面白がってくれるでしょう」
 楽しそうに微笑むセーラの横顔を、ヒューは愁いのある眼で見ていたが、不意に尋ねた。
「お宅の住所を教えてくれませんか? 来年クリスマスカードを送りたいから」
 セーラの微笑が引っ込んだ。 本心からではないとはいえ、孫と騙して尋ねた家の人と、友達付き合いして許されるものだろうか。
 それから、考えついた。 たぶん長くマドラスの下宿屋に住むことはないはずだ。 もっと居心地のいい家に住めるようになったのだから、教えた後でそっと引っ越してしまえばいい。
 どうせ、シドには手紙ですべてを打ち明けてしまったし…… 心を決めて、セーラはヒューに、きちんと番地まで教えた。
 それを手帳に走り書きした後、ヒューは一段と優しくなった。
「もうそろそろお昼どきだ。 うまいキドニーパイを出す店があるんですよ。 これから帰って作ってもらうんじゃ遅くなる。 食べていきませんか?」
 食欲はほとんどなかったが、セーラは努力して微笑を返した。


 屋敷に帰って二時間後には、もう出発だった。 グレイシーガル号は、翌日の午後に出帆する。 夜行列車で早めに港に行っていなければならなかった。
 使用人たちは、ずらりと並んで別れを惜しんだ。
「ヒューさま、また当分お戻りはありませんか?」
「早くとも来年後半になるだろうね。 これからは管理人として、よろしく頼む」
 ハンフリーは頭を下げ、下働きの男を追い払って自らヒューとセーラの荷物を馬車に積んだ。
 エイダが、手をもみながら、去って行く二人に呼びかけた。
「寂しくなります。 ずっとここにいてくださればいいのに」
「君にもよろしくお願いするよ。 ハンフリーと力を合わせて、母の愛したこの屋敷の面倒を見てやってくれ。 他の人たちも、頼みます」
「はい」
 一斉に皆が答えた。 女主人はいなくなったが、独立したい人間以外はヒューがすべて雇い続けることにしたので、みんなほっとしていた。

 馬車が前庭を半周して門から出るとき、セーラは上半身を乗り出して、屋敷の端から端まで視線を走らせた。 特別な思いが胸一杯に広がった。
――ここに足を踏み入れたとき、あんなに不安でおびえていた。 でも、この古いお屋敷で、私は人の情けを知り、悪の手から逃れ、そして恋をした…… ――
 すべてが懐かしく、親しみを持って心に迫ってきた。 屋敷を離れるのが辛いぐらいだった。
 馬車は次第に速度を増して、ゆるやかにうねる道を進んでいった。 大きな角を曲がる前に、もう一度だけ屋敷を振り返って、セーラは小声で別れを告げた。
「さよなら、ジェニファーさん、ダグラスさん、それに、屋敷に棲みついている沢山のご先祖さまも」 


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