表紙
・・・貿易風・・・ 67

 弁護士とアリスの代理人は、馬車に同乗してすぐにアサートンヒルへ戻っていった。
 残されたヒューとセーラは、暖炉が暖かい火影を投げる食堂で、午後の紅茶を飲んだ。
 スコーンに苺ジャムをたっぷりつけて、ヒューはおいしそうにほおばった。
「アギーの焼いたスコーンは他のとは比べ物にならないぐらいうまい。 アラベラに教えたいと言ったらレシピをくれるかな」
「レシピよりも焼き方でしょう」
 セーラは控えめに答えた。 外はカリカリで中はしっとりとして、本当においしい。 粉の種類にもよるのかもしれないが、私もできれば教えてほしいと思った。
 手を休めて、ヒューは温和な栗色の目をセーラに据えた。
「実はね、セーラさん。 インド航路の『グレイシーガル号』の乗船券を買ってきたんですよ」

 いよいよだ――平静を装ってカップを手に取ったが、指が小さく震えるのをなかなか止められなかった。
 優雅な紅茶の香りがたちこめる部屋に、どっとインド下町の強烈な匂いが蘇ってきて、セーラの意識を鷲掴みにした。 故里、そうだ、あの賑わいと暑さこそが、セーラ・ヒューイットの故郷そのものだった。
 ヒューはティーカップにミルクを継ぎ足して、静かに飲んだ。
「独り決めでやって悪かったですが、問い合わせたら明後日にキャンセルが出たというので、すぐに手配してしまいました」
「ありがとう」
 セーラの心は瞬く間に決まった。 ここでの暮らしは幻だったのだ。 マドラスに戻って、真面目に暮らそう。 無理をしないでいいだけの収入を貰ったのだから。
 年に六百ポンドといえば、四人家族が楽に暮らしていける金額だった。 インドはイギリス本土より物価が安いから、いっそういい生活ができる。 母と二人でちょっとしたフラットを借りて、父が戻るのを心配なく待てる。 さすがに気持ちがいくらか華やいだ。
 セーラの心の声が聞こえたように、ヒューが保証してくれた。
「あなた名義の通帳に年金が振り込まれるように手続きしましょう。 出発まで時間が短いので何ですが、買いたいものがあるでしょうからアサートンヒルまで明日連れていってあげますよ」
 何から何まで配慮が行き届いている。 ジェニファーの教育のおかげだろうか、と、改めてセーラは感心した。


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