表紙
・・・貿易風・・・ 66

 翌朝早く、シドは自宅に帰り、ヒューも午後には行く先を言わずに出かけてしまった。
 広いケンプ邸にセーラは三日間取り残され、寂しい新年を迎えた。

 四日目にようやく戻ってきたヒューは、プリーストリー弁護士と、もう一人見知らぬ中年男性を連れていた。
「こちらは姉のアリス・アトウッドの代理人です」
 まるでセーラが本物の家族であるかのように、ヒューはその男を丁重に紹介した。
「ミレンといいます。 よろしく」
 代理人が頭を下げたので、セーラも戸惑いながら礼を返した。

 四人は、読書室に入って腰を下ろした。 ヒューが呼んで、執事のハンフリーと女中頭のエイダ以下、来られる限りの使用人たちも同席した。
 プリーストリーがいつもの黒い鞄から大きな封筒を取り出して、ジェニファーの遺書を読み上げた。
「私、ジェニファー・エリス・ケンプは正常な判断力と健康な精神状態でこの遺書を記す。
 オーク・ハウス、通称ケンプ屋敷とその敷地は、息子のヒューゴー・ケンプに遺贈。 ローデシアに所有するゴーディナ鉱山もヒューゴー・ケンプに遺贈。 リーズ近郊の宅地および牧草地は、娘のアリス・ケンプ=アトウッドに遺贈。 ブラッドフォードのビール製造工場も同じく……」
 関係ないのにどうしてこの場にいるんだろう、と不思議な気持ちで、セーラは次第に自分の考えに引き込まれ、弁護士の声が意識から消えていった。
 弁護士は証書の二枚目に入った。
「……アリス・アトウッドとジェームズ・ケイリー・アトウッドの嫡男ロバート・ウィロビーには、学費として一万ポンドを遺贈。
 追記。 セーラ・ボスレー・ケンプに年額六百ポンドの終身年金を贈与するものとする」
 セーラの眼が、裂けるほど見開かれた。 終身年金……それも毎年六百ポンド! 我を忘れて椅子の肘掛に両手を置いて立ち上がろうとして、左腕がずきりと痛み、セーラは顔をしかめた。
 他の人は誰も驚いていなかった。 孫と信じているから、これでも少ないぐらいだと思っているのだろう。 アリスの代理人ミレンなどは、気の毒そうな視線を投げてよこした。
 気配りのいいジェニファーらしく、園丁や料理番見習にまで贈与金が与えられていて、読み上げるのに二十分もかかった。 どこからも苦情や抗議は出ず、遺言発表は静かに終わった。
 参加者がぞろぞろと書斎を出ていく中、弁護士の労をねぎらったヒューが、ぼんやり立っているセーラのそばに来て、いつも通りの淡々とした口調で言った。
「驚かないで。 僕は母に相談を受けました。 いい考えだと賛成しましたよ」
「でも……!」
 叫びだしそうになったセーラを、ヒューは目でたしなめ、押しかぶせるように言った。
「ケンプ家にとって、千ポンド以下の金は大した金額じゃありません。 ハンフリーの一時金はニ千ポンド、それに年金がつくんですから」
 感激にうるんだ目をあげて、ハンフリーが上ずった声で言った。
「こんなによくしていただけるなんて、ジェニファー様は本当に立派な方です」
 同じように将来を保証されたエイダも、目を拭いながら盛んにうなずいていた。


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