表紙
・・・貿易風・・・ 65

 シドの顔から笑いが消えた。
「なぜ?」
「なぜって……」
 セーラの眼が室内をさまよった。 どうしても自分の口からは言えなかった。 父親が盗みをして刑務所に入っているなんて。 それを話せば、シドはもう彼女を信じてくれなくなる。 鋭い茶褐色の瞳にようやく見せるようになった暖かい光は、あとかたもなく消えてしまうだろう……
「まだ将来を決めてしまおうとは思ってないし、それにイングランドは寒いし」
「よそへ住んでもいいよ。 インドでも。 僕はどこでも行ける」
 不意にこみあげてきた涙を、セーラは必死で押えた。 まさか、ここまで言ってくれるとは思わなかった。 そもそも一晩を共に過ごしたぐらいで求婚してくれるなんて、考えもしなかったのだ。
 こんな素晴らしい人には、もう二度と巡り合えないだろう。 彼を失うのは、本当に身がちぎれるほど辛かった。
 それでも、あらんかぎりの力を振り絞って、セーラは言った。
「待ってる男の人がいるんです。 故郷に」
 その男性とは父のことだったが、わざとあいまいな言葉を使った。
 望み通り、シドは恋人と受け取った。 ゆっくりとベッドから降りてガウンをまとうと、彼は既に親しみを失った声で言い残していった。
「僕に媚びたのかい? そんな御褒美なら、いらないよ」


 シドが去った部屋は、身震いするほど冷え冷えと感じられた。 唇を噛んで泣かないようにしながら、セーラは暗い庭を横切って自分の寝室に戻った。
 その後も涙は流せなかった。 明日の朝、顔を泣き腫らして食堂に行くわけにはいかない。 枕に爪を立てて、セーラはいろんなことを考え、気を紛らせようとした。
――インドへ帰ったら、新しい仕事を見つけなくちゃ。 旅費を引いたら千ポンドはいくら残るだろう。 小さなドレスショップを開業できるだろうか。 ミシンを買って、お母さんが器用な指で刺繍をして――
 まずは家の戸口に看板を出して、注文があるかどうか確かめよう。 店を買うのはそれからだ。 セーラは懸命に、未来の夢にしがみついて、明け方ようやく重い眠りに落ちた。


表紙 目次文頭前頁次頁
背景:kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved
 
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送