表紙
・・・貿易風・・・ 63

 セーラの心臓が、一瞬鼓動を止めた。
 一つの願いが、どっと頭を占領した。
――半年、いや、三ヶ月でもいいから、ここで、この静かな土地でこの人と暮らせたら――
 帰るのは、それからだってできる。 セーラはイギリスに来てから初めて、インドの家を遠くぼやけたものに感じた。 母の笑顔さえ、はっきりと思い出せなかった。
 だが、そんな想いは、山を下り落ちてきた刺すような風に、すぐ吹き払われてしまった。 無理に笑顔を作って、セーラはぎこちなく答えた。
「早く帰って両親を安心させてあげたいんです」
「ご両親……二人とも健在なんだね」
「ええ」
 言葉少なに答えると、セーラはショールをかき合わせて部屋へ戻ろうとした。
 その足が、がくんと止まった。 強い手が、セーラの怪我をしていないほうの手首を捉え、引き寄せた。
 胸と胸が合った。 息を呑んで顔を上げると、ぎょっとするほど力の篭った褐色の眼がセーラの視線に飛び込んできた。
「君は大事にされてない」
 セーラは懸命に首を振った。
「そんなことは」
「いや、そうだ!」
 声に鋭さが加わった。
「君はいい人だ。 善悪の区別もわきまえている。 それなのに、あんな男たちの口車に乗せられてはるばる旅をしてきた。
 なぜだ。 なぜ君の親たちは、止めようとしなかったんだ!」
「それは……」
 説明しようとしたとたん、口をふさがれた。

 あっと思った。 だがすぐに、何も考えなくなった。 自由になる右腕を自然に彼の首に巻きつけ、無我夢中でキスに応えていた。
 愛しかった。 胸の中がよじれるような、うずくような、何ともいえない感覚で全身が震えた。



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