表紙
・・・貿易風・・・ 55

 だが、ジェニファーの悲しみを考えると、そう簡単に夜逃げはできず、セーラは手紙を書き終えた後、迷いながらも寝てしまった。

 翌朝、いつも通り六時半に起きて服装を整え、片手では髪を結えないので小間使いを呼ぼうとしていたとき、廊下を慌しい足音が走ってきた。
 この屋敷は住人が大人ばかりなので、めったに駆け回ったりしない。 珍しいことがあるものだと思っていると、ドアが勢いよくノックされ、引きつった表情のエイダが首を覗かせた。。
 二歩入ったところで足を止めると、エイダは呻くように言った。
「奥様が……亡くなられました」

 反射的に、セーラは鏡の前の椅子から立ち上がった。 耳を疑う言葉だった。
「え?」
 エイダの顔がこらえきれずに歪み、口の端が垂れ下がった。
「昨夜はあんなにお元気だったのに、さっき寝室に入ったらぐったりしておいでで、手がもう氷のように冷たくて……」
 信じられない。 信じられない!
 髪を少女のように長く垂らしたまま、セーラは廊下に飛び出した。 すぐにエイダも追ってきた。
 小走りに進みながら、セーラは早口で尋ねた。
「ヒューさんには?」
「ハンフリーさんが知らせに。 すぐ起きてこられて奥様を見て、たぶん夜中のうちに亡くなったのだろうと言っておいででした」
 もうなりふり構わず、エイダは大粒の涙を流していた。

 すぐにかかりつけの医者イライジャ・コーウェンが呼ばれた。 しかしそれも、臨終を確認するだけの役割だった。
 沈痛な低い声が、寝室の中で行き交った。
「残念だが、いつ止まっても不思議はない心臓の状態でした」
「わかっています」
「ほとんど苦痛はなかったと思いますよ」
「そうだったことを願います」
 後は葬儀屋と聖職者の出番だった。 うつむいているヒューと握手を交わして、医師はチェックのコートに腕を通すと、馬車に乗って帰っていった。

 親族として寝室に招き入れられたセーラは、ヒューと並んで、動かなくなったジェニファーの顔を見つめた。 目を閉じ、胸で両手を組んだジェニファーは、昨日までの活き活きした面影を失い、祭壇に飾られた聖人の遺骸のように見え、どこかよそよそしかった。


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