表紙
・・・貿易風・・・ 53

 それでも、夕方になってエイダが呼びに来たとき、セーラは自分の心を励ましてジェニファーの部屋へ向かった。
「今日は暖かいですからね、奥様の調子もよろしくて、ぜひお嬢様とお話したいと言っておられます」
 エイダは気持ちが高ぶっているらしく、いつもより早いテンポで語りながら、長い廊下を先立って歩いていった。
「念には念を入れて申しますが、恋のもつれで撃たれたなんて決しておっしゃらないでくださいよ」
 ああ、ヒューはそう説明しているのか――確かに事情を知らなければそう見えるかもしれないな、とセーラは気付いた。

 ジェニファーはベッドに上半身を起こしていた。 ナイトキャップを取り、きれいに髪を結い上げている。 それだけで十年は若返って見えた。
「いらっしゃい、セーラ。 まあ、腕を吊って、本当に痛そうね」
「いえ、もう痛みはありません。 動かさなければ」
 セーラはぎこちなく微笑んで、ジェニファーの横に座った。

 それから二十分ほど、住み込みのナースが来て止めるまで、ふたりはしみじみと語り合った。
「ヒューが戻ってきてくれて、本当に嬉しいわ。 私は賑やかなのが好きなの。 これでアリスが一度でも里帰りしてくれたら、言うことないんだけど」
 洩らしたつもりはなかったのだろうが、小さな溜め息がセーラの耳に届いた。 ジェニファーは、胸にショールを留めているトルコ石のブローチに触れ、持ち上げてじっと眺めた。
「これは、アリスにあげようと思って買ったの。 でも、あの子はこちらでは婚約だけして、さっさとスペインに行って式を挙げてしまった。 私が心臓のせいで旅ができないのを知っていてよ。
 アリスの気持ちがわからないじゃない。 確かに私は、あなたのお父さんに夢中だった。 可愛いというより、命がけだったわ。 やっと生むことのできた跡継ぎですもの。
 でもね、それはアリスが可愛くなくなったということじゃないの。 ダグラスより十一年年上だから、一緒になって弟を育ててくれると思った。 そのうち相談相手にもなってくれると。
 私が考え違いをしていたのね。 十一の女の子はおとなびて見えるけど、やはりまだ子供なのよ。 もっと甘えさせてやるべきだった。 寄宿学校へ入りたいと言い出したとき、止めればよかった……」
 ジェニファーの目に、うっすらと涙が浮かんだ。 心をかきむしられるような気がして、セーラは思わず身を乗り出した。
「手紙を書きましょう。 お祖母さまの本心を知ったら、アリスさんもいい返事をくれるでしょうし、もし都合がついたら戻ってきてくださるかも」
「そうねえ。 でも……」
 ジェニファーは迷っていた。 だが、セーラは既に心を決めていた。


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