・・・貿易風・・・ 50
セーラの手が、思わず胸元に上がった。 ぎりぎりと指で締めつけられたときのひどい圧迫感が、なまなましく蘇ってきた。
ヒューは小さく頬を痙攣させながら、それでも静かに話し続けた。
「見つけたのは、当時十四歳のシドです。 地元の少年クリケット・チームで、新入りの子供たちの度胸試しをやる伝統があって、その会場をあの馬屋にするために、下調べに来たんです。 大変な度胸試しになってしまって……」
瞬間、言葉が途切れた。
「でも、シドはしっかりしていました。 すぐに柵をよじ登って、ナイフでロープを切り、ダグラスが生き返らないか人工呼吸をしたんですが、もう冷たくなっていたそうです。
彼はダグラスを尊敬し、慕っていました。 僕と同じに。 それに、母のジェニファーのことも大好きでした。 だから真っ先に僕のところへ来て、言ったんです。 これを二人だけの秘密にしよう、ダグラスは遠くへ行ってしまったことにして、母の心臓が悲しみで破れてしまうのを防ごうって」
瞬きを忘れて、セーラはヒューの青白い横顔を見つめた。 やがてその強ばった顔は、じわりと湧き出た涙の膜ににじんで、薄くぼやけてきた。
「なんて……なんて辛い……でも、なんて立派な……」
後は言葉にならなかった。 セーラは自由になる右手で素早く眼を拭った後、思わず差し伸ばして、ヒューの手に重ねた。
初めてヒューの声が苦悩に裏返った。
「服をしまう櫃を、シドが屋根裏部屋から持ってきて、ふたりで兄を入れて、土を掘りました。 自殺した者は正式な墓地には入れてもらえない。 でも、できるだけ教会の塀のそばにしました。 人目につかず、平和に眠れる北側に……」
手の上に載ったセーラの柔らかな手を、ヒューはゆっくり持ち上げて、羽根のように軽く唇をつけた。
「あの日以来、僕たちは女性が怖くなりました。 恋愛が、と言ったほうがいいかもしれない。 付き合った相手がいないわけじゃないけど、どうしても踏み込めなかった。
恋が兄を滅ぼすところを、この眼で見てしまったわけですから」
老人のように背を曲げて立ち上がると、ヒューは普通の声に戻った。
「その傷のことですが、弾は肉を貫通しただけで、骨には傷をつけなかったそうです。 もうじき痛みは取れて、十日ほどで治るだろうと」
打ち明け話のショックで、まだセーラは混乱していた。 自分の怪我のことなのに、遠い世界の出来事に思えた。
「……そうですか」
「ゆっくり直してください。 くつろいで、ここを自分の家だと思って」
ぎこちない微笑を残して、ヒューは影のように部屋を出ていった。
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