表紙
・・・貿易風・・・ 49

 ヒューゴー・ケンプだったヒースは、いつも通り穏やかに微笑んで、エイダがさっきまで座っていたスツールに腰を下ろした。 そして、心を込めて言った。
「ありがとう。 あなたがいなかったら、僕はあの男に胸を撃ち抜かれていたでしょう」
 セーラの口が緊張で引きつった。
「いいえ……本当は私……」
「待って」
 珍しく鋭い声で遮ると、ヒューは戸口に立っていたエイダに向き直って頼んだ。
「すまないが、お母さんの部屋へ戻って見守ってやってくれないか? 君がいないと心細いと思うから」
「はい、わかりました、坊ちゃま」
 任されたことで誇らしげに、エイダは廊下をパタパタ歩いていった。
 その足音が遠ざかるのを待ってから、ヒューは再び口を開いた。
「本当のことは言わないでください。 あなたはダグラスとシャルダナの娘のセーラ。 そういうことにしておいてください。 ますます弱ってきた母のために」
 セーラは眼を大きく見開いた。
「それじゃ、私が娘じゃないと……」
「わかってました。 最初から」
 ヒューの手が、椅子の肘掛を強く握った。
「ダグラスは駆け落ちなんかしてないんです。 インドにもまったく行っていない。 彼はこの十九年間、ずっとイングランドに留まっていたんです」
 セーラの喉が、あまりの意外さに音を立てて鳴った。
「ずっと……?」
「ええ」
 押えきれない苦さが、ヒューの声を濁らせた。
「セントメアリ教会外れの土の下に」

 セーラは眼をつぶった。 おそろしい衝撃が全身を包んだ。 使用人たちに立ち聞きされないよう、ヒューはぎりぎりまで声を落として話していた。
「ダグラスは、両親の反対を押し切ってシャルダナ・ラースと結婚しようとしました。
 でも、兄が勘当されたことを知ると、シャルダナは手のひらを返したように冷たくなりました。 彼女の望みはダグラスではなく、兄の地位と財産だった。 しかも、他に恋人までいたんです。
 ロンドンでシャルダナに別れを告げられたダグラスは、家に帰ってきました。 でも母屋に戻ってこないで、馬屋で首を吊ったんです」

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