表紙
・・・貿易風・・・ 47

「セーラ」
 もう一度、彼は彼女の名前を呼んだ。 その声は、驚くほど優しく、寂しい気配が漂っていた。
「僕じゃ君を幸福にできない。 わかっていたんだが、夢を見たこともあった。 奴らの手の届かないところへ、君を連れて逃げようかなんて……」
 低い自嘲の笑いが後に続いた。
「ほんとに一人よがりだな。 今、気を失ってる君にこんなことを言っているのも。
 でも、口に出してみたかったんだ。 君の眼を見たら絶対に言えないことを」
 指が伸びて、セーラの肩に乱れかかった髪を一房すくい取った。 セーラはぴくりとも動かなかった。 しかし、男はすぐ手を離し、来たときと同じように、足音を立てずに部屋を出ていった。

 気がつくと、セーラは細かく震えていた。 彼が触れた髪に手を伸ばし、夢中で唇に持っていった。 追っていきたかった。 腕が痛くても彼に抱きついて、感触を確かめてみたかった。
 だがすぐに、手は力なく垂れた。 自分は真っ赤な偽物で、しかも父は刑務所にいる。 立派な家の跡継ぎと恋なんかできる立場ではないのだ。
――彼はどこまで察しているんだろう。 私が詐欺の一味でないのはわかってくれたみたいだけど。 どっちみち、嘘をついてこの屋敷に来たのは事実だし、もう取り返しはつかないわ――
 それでも胸は燃えていた。 愛された自分が、誇らしく思えた。

 夢見るような眼で天井を見つめていると、衣擦れの音がして、エイダが入ってきた。 そして視線が合うと、一面の笑顔になって、うなずいてみせた。
「気がつかれましたね? ご立派でしたよ。 ヒュー坊ちゃまの命を救ってくださるなんて」
 ヒュー? セーラはけげんそうに瞬きした。
「え? 誰?」
 布団をかけ直しながら、エイダはじれったそうに言った。
「ヒューゴー・ケンプ様ですよ。 船でご一緒だったでしょう?」
 ああ、ヒース…… 二つの像が重なって、ようやく一人の人物になった。
「髭を剃ったら、あんな顔?」
「そうなんですよ」
 エイダは楽しげだった。
「ダグラス様そっくりになられましたね。 子供のときはそんなでもなかったんですけど。 なにしろ半分しか血がつながってませんからね」
 半分? 意外な言葉だった。 確かヒューゴーは、後から貰った養子ではないのか……
 ちらっと戸口のほうを見てから、エイダは小声になった。
「ご存じなかったんですね? このお屋敷はいろいろと秘密が多いんです。
 でもヒュー様のことは村中が知ってるから、隠さなくてもいいでしょう。 事情が事情だし、どなたも責められませんよ」
 エイダの顔が真面目になった。
「先代のジョージ様は、トーキーへ遊びに行ったときに十九歳のジェニファー様に会って、夢中になってしまわれたんです。 でもご両親は、病死されたご長男のエリック様の未亡人とジョージ様を一緒にしたかったので、猛反対されました。
 結局、未亡人は別の男性と再婚して、一人娘を残していってしまいました。 そのお嬢さん、つまりアリス様ですが、彼女を引き取るという約束で、ジョージ様はやっと結婚を許してもらえたんです。
 ジェニファー様はあのお体ですから、お産みになるのは一人が精一杯でした。 だからダグラス坊ちゃんは奥様の宝物でした。 それはもう、ほんとに目に入れても痛くないという感じで。
 それで長女のアリス様は、すっかり影が薄くおなりでした。 かわいがられなくなったというわけではないんですが、もう自分はこの家には必要ないんだと、思い込まれてしまったんですね。 ウィンブルドン郊外の寄宿学校に入りたいとご自分から言われて、その後は休みでももうここには戻ってこられず、卒業と同時に幼なじみと結婚されてしまったんです」
 実の子供は一人だけ? セーラはすっかり話に引き込まれた。

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