表紙
・・・貿易風・・・ 45

 セーラは更に急いで裏口に向かった。 そ知らぬ顔をして部屋に入ってしまえば目立ちはしない。 やることは山ほどある。 しかも時間は限られている!
 男は馬車を止めて顔を上げ、建物の陰に姿を消そうとしている薄着の娘をじっと眺めた。
 それから、不意に呼びかけた。
「セーラさん!」

 その声は、まるでロープをかけたようにセーラにからまって、一瞬あらゆる動作を止めてしまった。 聞き覚えのある声だ。 妙に懐かしい響きなのだが、姿と結びつかない……
 家の方に向いたまま、眼だけ動かして、セーラはおそるおそる馬車のほうを見た。 すると、身軽に飛び降りてきた青年が、大股でこっちへ歩いてくるのがわかった。

 気持ちのいい顔だった。 ハンサムと言えたかもしれない。 ややほっそりとした輪郭で、顎にはくっきりと凹みがあった。
 きれいにそり上げたその顔に、セーラは無言で視線を這わせた。 まだわからなかった。 なれなれしく自分に微笑みかけ、古くからの知り合いのように名前で呼んだ青年が誰か。
 真面目な表情のまま、彼はセーラに近づいて、手を伸ばせば届く距離に立った。
「そんなに変わって見えますか? 船で三ヶ月近く一緒だったでしょう?」

 あ…… 極限の体験をしたすぐ後だったため、のんびりと楽しかった船の暮らしは、記憶の端にぼんやり垣間見えるセピア色の映像としか感じられなかった。 実感のないもどかしさに、セーラの唇が震えた。
「ええと……」
「ヒースです。 あのときはそう名乗ってました」
 そうだ……! セーラは目を見張った。 でも、あのときはって、どういう……? まるで頭が働かないセーラの肩に、ヒースの手が回って、自分のマントをそっとかけた。
「どうしました? 青い顔で、がたがた震えて」
「あの」
 この人は前も味方してくれた、と瞬時にひらめいた。 彼になら話していいかもしれない。 また力になってくれるかも。
「あの、私……」
「てめえだったのか!」
 セーラの弱い声に、背後から怒号が重なった。 頭を殴られたようになって、セーラは慌てて振り向いた。
 予想通り、そこにはトロイがいた。 しかも今度は右手に黒い物体を握っていた。 それが大型拳銃とわかるのに、時間は要らなかった。
 ヒースは素早くセーラを背後に回して庇い、冷たい茶色の眼で、船員の金モール付きコートを着た男を見据えた。


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