表紙
・・・貿易風・・・ 44

 小さくあえぎながら、セーラはよろよろと立ち上がり、馬屋を出た。 雪の上には、トロイに連れてこられたときの二列の足跡と、彼が逃げていった後の乱れた筋が並んでついていた。 走って逃げた足跡は、途中から横へ折れて、裏庭の外れにある茂み付近で消えていた。
 もうトロイは近くにいない。 ほっとしたセーラは、一刻も早く母屋に行こうとして小走りになった。 殺されかけたのだという恐怖が全身の震えを呼んでいた。
 坂を登って中庭に近づいてきたとき、頭の中をシドの声がよぎった。
『あの道をずっと行くと、古い馬屋に出る。 今はもう使ってないが、あそこには言い伝えがあってね。 若い男が梁にロープをかけて、だらんとぶら下がっている姿が見えるんだと』

 セーラは息を吸い込み、急いで振り向いて馬屋を眺めた。 もしかすると、トロイをあんなに怯えさせたのは……
 だが、すぐ前に向き直って足を急がせた。 私には何も見えなかったし、何も感じなかった、と自分に強く言い聞かせながら。 いるかいないかわからない幽霊より、現実の殺人犯のほうがよほど怖かった。

 置手紙を残して、そっと逃げ出すつもりだった。
 偽物とジェニファーに知られるのは辛いことだ。 ほとんど実の祖母に近い愛情を抱きはじめていたからだ。 だがこのまま知らん顔をしているわけにはいかない。 セーラがぐずぐずしていると、トロイ達は新しい陰謀をたくらむかもしれないのだ。
「あいつらはお母さんのことを知ってる」
 そう気がついて、セーラは歯の音が合わなくなった。 マドラスにあいつらの仲間がいて、ジャナを人質に取られたりしたら! 町に出たらすぐ、故郷に電報を打とう。 そして母に、すぐ避難するように言わなくちゃ!

 セーラがコートも着ないで髪を振り乱し、裏口に駆け込もうとした、まさにそのとき、表から小型の馬車が入ってくるのが見えた。
 乗っているのは若い男がひとりだけだった。 御者を使わず、自分で大きな灰色の馬をあやつって、上手に円形花壇の周囲を巡り、門の前に乗りつけようとしていた。


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