表紙
・・・貿易風・・・ 43

 本当に息が苦しくなって、セーラは首をやみくもに振りながらもがいた。 トロイは少しだけ指をゆるめ、悪魔のような笑顔を見せた。
「さあ、約束しろ。 遺産はしっかり貰う、そして俺と結婚して山分けにするってな」
「できない……」
「なんだと?」
 トロイの顔から笑いが完全に消え、全身から激怒が伝わってきた。 指が曲がり、首の皮膚に食いこんだ。 セーラは苦しまぎれに男の手に爪を立てたが、すぐ叩き落とされてしまった。
「それならくたばれ。 後で縄でぶら下げて、自殺したことにしてやる。 詐欺師の女が良心の呵責に耐えかねて首を吊ったわけだ」
 セーラは体をくねらせ、足で蹴った。 だが男はびくともしなかった。
 窒息の苦しさが遠のき、意識が薄れてきた。 もう終わりなんだ――セーラが望みを捨ててだらりとなりかけたとき、不意にトロイの手が離れた。

 どさっと床に投げ出されて、セーラは喉に指を当てながら弱々しく咳をした。 じきに、しぼんだ肺に空気が戻ってきて、ちらちらしていた目の焦点が合うようになった。
 眼前では、思ってもみない光景が展開していた。 まるで何かから身を守るように、トロイが両腕を虚空に向かって突き出し、顔を極度に歪めて、一歩、また一歩と後ずさりしていった。
 充血して飛び出したその眼をまず愕然として見つめ、一点に据えられた視線を追って、セーラは萎えた力を振り絞って後ろを向いた。
 背後には、何もなかった。 入ってきたときと同じ、土埃の積もった広い馬屋があるだけだ。 雲が切れて薄日が射してきたらしく、屋根の破れ目から斜めに光の筋が入って、空気中のちりを白く浮き上がらせていた。
 また頭を元に戻したセーラは、トロイがいきなり近くにあったレーキを拾って投げつけてきたので、危うく床を転がって難を逃れた。
 だが、トロイは彼女にぶつけようとしたのではなかった。 視線はその動作の間中ずっと、自分と同じぐらいの高さの空間に釘付けとなっていた。
「やめろ……」
 トロイは呻いた。 驚くほど悲痛な声だった。
「来るな。 来るなー!」
 そして、遂に持ちこたえられなくなって、くるりと向きを変えると泳ぐように逃げ出した。

 セーラは一人、馬屋に残された。 近くの木から小鳥のさえずりが聞こえる。 静かで平和で、なごやかささえ感じられた。


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