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・・・貿易風・・・ 23

 自分用に用意された部屋に足を踏み入れて、初めてセーラはジェニファーがどれだけ孫の到着を楽しみにしていたか悟った。
 部屋は本当に美しかった。 フランス窓には真っ白なレースがなびき、同じ生地でベッドの天蓋から床までキャノピーが広がっていた。 床には、靴で踏むのがもったいないほどのペルシャ絨毯。 おそろいの白いデスクと椅子。 そしてマントルピースの上にかけられた楕円形の額には、秀でた額をした青年の肖像画がはめ込まれていた。
――これがダクラス・ケンプなのね――
 セーラはしばらく絵を見つめていた。 自分になんとなく似ている気がした。 目の色とか、唇の輪郭とか。
「顎は似ていないわ。 割れてるもの」
 くっきりと笑窪のように凹みのある顎は、なかなか特徴的だった。

 ベッドには筒型の湯たんぽが入っていて、足を温めてくれた。 その晩は夢を見ずに眠った。 やはり疲れていたのだろう。 シド・アトウッドに疑惑の目で見られているようだったが、不思議に不安は湧いてこない。 どうやらセーラは、土壇場で度胸が据わるタイプらしかった。 これまで自覚したことはなかったが。


 翌朝、セーラはメイドが手伝いに来る前にさっさと身支度を終えていた。 これからも甘えるつもりはなかった。 ジェニファー夫人の余命は長くないという。 亡くなるまで孫として傍にいて、それからインドに帰るのだ。 どうやら騙されたのではなく、初めの予定通りにことが運びそうで、セーラは心が弾んでいた。
 やがて案内された朝食の席でも、気分の良さが出た。 ハムエッグにマーマレードというメニューを、セーラが実に楽しそうに口に運ぶので、横で卵をつまらなそうに突ついていたメイヤーが苦笑して囁いた。
「はっきり言って、まずいですな。 船の食事のほうが数倍ましだった」
「私にはこれで充分です」
 セーラはきれいに平らげた皿を満足そうに眺め、紅茶のお代わりを頼んだ。
 半分以上残したメイヤーは、時計をポケットから出して確かめると、真面目な表情になってセーラに告げた。
「じゃ、とりあえずわたしはロンドンへ行ってきます」
「えっ?」
 びっくりして、セーラは中腰になった。
「ロンドンって……」
「インドから持ってきた仕事を片づけるんですよ。 一週間ぐらいなら一人で大丈夫でしょう」
「でも……」
「落ち着いて」
 今度はびしっと言い聞かせる口調になった。
「大奥さんにはあなたが必要なんです。 いいですか、しっかりするんですよ。 ショックを与えたら彼女がどうなるか考えなさい」
 それは、芝居を続けろという強い命令だった。


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